直 言、パート18

Maria
April 28, 2006

Table of Contents

GN 1174 FD/MM/FM MAY 2006

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ファミリー内の現在の論点や問題態度に対する神の見解

マリアFD/MM/FM 3592 2/06

注:このレターにある「チャレンジング・ソーツ」は、全般的なコミットメントや

弟子の資質について語っており、必ずしもそこで話し合われている論点に関するものではありません。

ブログ

[ボックス:]

ブログ(名詞):インターネット上の日記。継続して更新されるウェブ上の日記で、独自の思いや見解、エピソードなどが掲載される。ウェブログとも呼ばれる。読者が記事にコメントを投稿して掲載できるものが多い。

[ボックス終わり:]

論 点:

1.ファミリー・メンバーがブログを始めるようになったのはごく最近のことですが、その傾向は広がっているようです。当然、書く人によってブログの内容も様々です。読んでいて霊感され、面白く、励まされ、楽しく、真理とファミリーの信条の良いテスティモニーとなっているものもありますが、ややポジティブさに欠けるもの、また全体的にネガティブなものもあります。

  2.ファミリー・メンバーのほとんどのブログにあるリンクをたどると、様々な表現やスタイルや内容のサイトに出くわします。ブログは目新しいもので、一部の人たちにとっては「未知の世界」であり、たまたま出くわしたブログがネガティブまたは浅はかな内容であるため、気になった親やシェパード、メンバーたちからの手紙や質問をピーターと私は受け取り始めています。私はこのことについて主に意見を尋ねたので、それを皆さんに紹介しようと思います。私たちが尋ねた質問は「主は、ファミリー・メンバーがブログすることをどう思っておられるのか? 時間と労力を投資する価値があると主がみなされるブログにするためのポイントは何か?」です。

  3.まず言っておきたいのですが、私自身、ファミリー・ブログがどの程度世界中で流行っているのか知りません。「自国」フィールドと宣教フィールドの幾つかのエリアで大流行し、大勢のメンバーがブログを運営しているのは知っています。けれども、ブログがそれほど重要視されていないエリアもたくさんあるだろうと思います。インターネットに接続するのが高くつくか、インターネットへの接続がそれほど信頼できない、または入手が困難とか、そのエリアでは他の事が「流行っていて」、ブログはその内の一つに入っていないのかもしれません。しかしながら、誰かが誰かのブログを読む可能性はあり、世界各地の人たちがファミリー・メンバーのブログに目を通したことがあるでしょうから、このカウンセルは全員にとって役立つと思いました。それで、GNに掲載したのです。そして、あなたがブログを持っておらず、ブログを読んだこともなく、ブログを持っている人を誰も知らないとしても、弟子になることやシェパディング、証し、自分の兄弟姉妹に対して良いテスティモニーになることについての良いカウンセルがあります!

  4.ブログについて主から聞いてもらうよう準備をしていた時、私はブログの良い点と悪い点をまとめてみました。おもに私が受け取った手紙と、WS内でブログを運営しているメンバー数人の個人的な体験談からです。

良い点:

  5.>ブログはフェローシップの一種、また友達や家族と連絡を取り合う手段である。友達や家族の出来事を記録するのは楽しく、ブログに記事を載せることで個人的に手紙を書かなくてもすむ。

  6.>写真や音楽、その他のインスパイヤリングなものを紹介する方法であり、楽しく、おもしろい。

  7.>ブログは、ある人にとって趣味であり、リラックスでき、やりがいがある。

  8.>ブログをつけることは、文章力を鍛えたい、または向上したいと思っている人、あるいは自分の気持ちを表現する場がほしいと思っている人にとっては学ぶ機会になる。日誌や日記のようなもの。

  9.>ポジティブで主の霊のよって書かれるなら、ブログは証しになる。敬神的な見解やレッスン、インスパイヤリングな話、興味をそそるニュース、さらには御言葉や個人の預言の抜粋などを紹介する手段にできる。そのような内容が掲載されているなら、そのブログは真理を与えたり、闇の中にいる人たちに光を投じたりするインターネット上の「表明」になる。

  10.>励ましや兄弟愛、ポジティブな仲間間でのプレッシャーの源、レッスンや個人的な出来事を分け合い、コメントからサポートや友達の祈りを受け取る手段になる。また、小さなホームや遠く離れたフィールドにいるメンバーにとって、ファミリーの他のメンバーとのフェローシップや友情関係も供給してくれる。

悪い点:

  11.>特に、エリアにおけるプロジェクトや他のホームに関わることなどについて、無分別に多くの情報が載せられるなら、セキュリティーが侵害される。

  12.>ファミリーや私たちのライフスタイルを悪く見せたり、合法でないか憲章で禁止されている行為を認めたりしているなら、悪いテスティモニーになる。(未成年者の飲酒など)

  13.>時間が取られる。そして、極端な場合では、ブロガーが勝利チームに必要な絆を築くよりもブログに記事を載せたり、他の人のブログを読んだりするのに興味を持つなら、ホームのフェローシップや団結のための時間が奪われる。

  14.>ブログの管理人や大部分のコメントがネガティブで、無意味で、不平不満で満ちているなら、仲間間のネガティブなプレッシャーや神を敬わないインプットの源になる。

  15.>ブログは、元ファミリー・メンバーがファミリーの若者の関心を引こうとして使う手段になることがある。敵対者の中にはファミリーのブログに入って頻繁にコメントを投稿した者たちがおり、その後でファミリーの若者がフェローシップのためにこのようなブログに入って、非常にネガティブなコメントや敵対者からの露骨な「スカウト」交渉を読むことになる。自分のブログを忠実に管理運営し、ブログに載った不適切なコメントや「出しゃばった」コメントをサイトから削除しているメンバーもいるが、そうしていない人もいる。

  16.>当人が費やしている時間のわりにはあまり中身がないことがある。

神の見解:

  17.(イエス:)ブログはコミュニケーション手段、方法、形式の一種だ。そして、どんなコミュニケーションでも言えるように、良いようにも悪いようにも利用できる。ブログ自体が悪いのではない。使い方が問題なのだ。個人的なEメールからウェブサイト、ブログ、歌、詩、写真、コメント、会話、表情にいたるまでどんなコミュニケーションまたは表現の形式でも、益になることもあれば、害になることもある。そして、常に言えることだが、ブログも含むすべてを判断する方法はその実によってである。

  18.ブログを運営しているのが献身的なファミリーの弟子なら、その実と働きがブログに反映されるだろう。その人生に結ばれた実や時間の使い方、ブログの内容、そこから生じた結果に至るまでが。

  19.人はそれぞれ異なるように、多くの状況と異なるブログのスタイルがある。ブログは個人サイトであり、人は皆、異なる方法で表現し、それぞれ異なる興味や趣味、才能などがあるからだ。

  20.しかしながら、わたしはここで価値あるブログにするための一般的なガイドラインまたはポイントを与えよう。そのブログがポジティブな影響を与え、他のファミリー・メンバーが見たり、読んだりするだけの価値があり、ブロガーの時間を費やすに値するブログにするための秘訣だ。

  21.価値あるブログには、全部とは言わないまでも、以下に載せたほとんどの「実」があるだろう:

  22.—何らかの面で、時間の節約になる。つまり、様々なEメールを大勢の親戚、ファミリー・メンバー、友達に書いたり、個人の日誌を書いたりする代わりにそれらをブログに載せるのだ。ブログを始める前にしていた事やブログがなかったらしていたであろう事に費やすのと同じだけ、あるいはそれより少ない時間ですんでいる。

  23.—ワードタイムやあなたのメイトまたは子供との時間、ホーム・メンバーとフェローシップしたり、交流したりする時間、ミニストリー、運動、ホーム生活や弟子としてする必要があるその他の活動をする時間に割り込まない。ブログは、趣味や余分な事、生活を深めるものとして適切な場に保つことができるが、本当に大切な事を閉め出してはならない。これが鍵であり、必須だ。

  24.—わが言葉の原則や霊の物事を強調する。これも大切なポイントであり、必須だ。すべての記事にわが言葉からの引用がなければならないということではないが、全体的に見て、あなたが掲示する内容はわが言葉の原則、つまり真理や信仰、愛、憐れみ、与えること、証しの原則とファミリーの信条を支持しているか、後押ししているべきだ。そして、わが言葉やわが言葉の原則に反するものをブログに載せるべきではない。

  25.—ブログは同意見の人の関心を集めることになる。そのような人たちが読者の大多数だから。つまり、兄弟愛の絆やフェローシップを広めている。互いに理解し合い、信仰によって励ます情報源になる。ブログを読む人に心の支えやポジティブな仲間間の影響を与える。頻繁にブログに訪れる人はあなたと信仰を分かち合い、あなたを支持し、励ます人であるべきだ。

  26.もちろん、活発で興味深く、特に確信やわが言葉に基づく記事が満載されたファミリーのブログは、ネガティブな元メンバーの標的になる。彼らは「喧嘩を売りたい」のだ。だから、人々がネガティブなコメントを掲載したり、「交流する」人たちが皆、同じ意見を持つ兄弟たちではないからといって、サイトを閉じる理由にはならない。それは、あなたが正しい事をしており、確信があること、また、「負け犬が吠えている」ことの証拠なのかもしれない。

  27.しかし、ブログを運営している人は誰でも、サイトのほとんど全部をポジティブで信仰を築くものにするよう、何らかの予防策を取るべきだ。ほとんどのコメントがネガティブなもので、あなたの態度や信仰を共有する人がおもな読者ではなくなったら、ブログのやり方をもう一度見直したり、ブログ自体を考え直したりするとよいだろう。

  28.—何らかの面で証しになる。兄弟姉妹とのフェローシップはよい。それ自体、証しの一種だ。けれども、最善なのは、ブログがファミリー以外の人たちに手を差し伸べる方法にもなっていることだ。言葉使いを全部変え、ファミリー用語を使わず、「PR」目的のブログにせよと言っているのではない。だが、「誰でも」ブログを読むことができるのを忘れず、興味があるウェブ・サーファーへの助け、または証しになるような内容にしておくとよい。あなたのブログが、クリスチャンまたファミリー・メンバーのテスティモニーとしてネガティブではなくポジティブな印象を与えるものにしておきたいだろう。

  29.—必要を満たす。その必要とは、あなたのミニストリーまたは地元の活動の促進かもしれない。フェローシップや心の支えかもしれない。あなたが学んでいる事、またはしている事に対する意見や助けを受けることかもしれない。必要は多種多様だが、いずれにせよ、ブログは何らかの必要を満たしているべきだ。

  30.—ミニストリーや証しに役立つスキルを磨いている。文章力やデザイン、アート、写真、音楽などのようなスキルがこれにあてはまる。ブログを始めることでわたしが与えた才能やスキルを高めたいという刺激や動機を受け、実際に才能やスキルを高めている時間をあなたから奪わないなら、それは良いことだ。あなたの「作品」を掲示する場があることでさらに良い仕事をしようという励みになり、あなたの作品に対する意見を聞く機会が持て、それがわたしの栄光のために使える才能を磨くことになるなら、それは良いことだ。

  31.—表現力を磨き、信念や気持ち、レッスンなどを明確に述べるのを学ぶ助けとなる。宣教師また弟子として、コミュニケーションの筋肉を良い状態に保つのは大切だ。ブログはそのための唯一の方法ではなく、全員にとって最も効果的な方法でもないが、一部の人にとっては非常に効果的だ。あるいは、唯一または主要な選択肢であることがある。ブログは面と向かってのコミュニケーションや手紙などのような幾つかある方法の一つにすぎず、他の方法を使ってもコミュニケーションや自己表現のスキルを練習することができる。

  32.—興味をそそり、簡潔な内容で、読みやすい。これはささいなポイントに思えるかもしれないが、ブログが乱雑で不明瞭だったり、ずさんな構成だったり、間違いやタイプミス、つながらないリンクが至る所にあるなら、コメントが来ることもなく、ブログをする価値がますます減るだろう。また、読者の時間も無駄にしていることになる。しっかりした内容で、読みやすく、工夫されているなら、読者は多くの時間を費やすことなく、あなたの投稿から益を受けることができる。

  33.—祈られ、わたしから確証をもらっている。ブログに時間と労力を投資する価値があるかどうかわからないなら、わたしに尋ねなさい。ブログが役に立つか助けになっている具体的な理由のリストと、知っておくべき悪い点や時間の無駄になる点を説明してもらうよう尋ねるのが最善だ。ブログをできるだけ有益なものにし、ブログやあなた自身が道から外れないようにするためのカウンセルや秘訣、セーフガードを求めなさい。

  34.すでにブログを始めたものの、始める時に祈ったり、わたしから聞いたりしていなかったなら、今わたしの所に来て、確認し、自分にとっての良い点と悪い点は何か、ブログを続ける価値が今でもあるのかどうかを尋ねなさい。あるいは、始める時に祈ったとしても、もう一度確認しても害にはならない。まだ続けるべきか、うまく運営されているか、あるいはより実り豊かで価値あるものにするために何らかのチェックやセーフガードが必要かどうかを尋ねるのだ。

  35.以上のポイントにポジティブな答をすることができ、現在始めている、あるいは始めようとしているブログがこれらの基準に達しているなら、どんどん推し進めなさい! 真の動機や賢い時間の使い方、その他何でも、わたしがあなたに与えたガイドラインや秘訣の範囲内に留まりなさい。自分のブログがこの基準に達していないとか、あなたを必要な事や大切な事から引き離しているとわたしが示したり、他の人が指摘したりするなら、あなた自身の大切な人生と霊と時間を守るために、また他のメンバーのため、あなたが彼らに与えている影響ゆえにオープンになってそのカウンセルを受け入れ、快く見直しなさい。(以上、メッセージ)

追加の読み物:

  36.(ママ:)以下は、ブログを価値あるものにするための主からの貴重なカウンセルです。

  37.(イエス:)わが子が選ぶどんな時間の過ごし方にも言えることだが、ブログを始めるなら、正しい理由によって始めるべきだ。弟子としてのあなたの生活の見本となるべきだ。大勢の者たちがブログを始めた。それは、わたしへの奉仕の人生や人々を助けるために費やされた時間、わたしが彼らの人生に行った奇跡に関する大きな証し、あるいは一宣教師の日常生活がつづられている。

  38.人生を他の人に分け合うことは、証しだ。そして、世界中でインターネットが普及していることから、証しの手段としてわが子らが活用できるものなら何でも良いことだ。

  39.証しに出る前に祈り、出会う人たちに対してどんな小さな形でもわが愛のテスティモニーになれるようわたしに求めるように、ブログも同じように見なければならない。「投稿」ボタンをクリックするたびに、あなたは自分の言葉を外に出して誰でも読めるようにしている。あなたには、誰がそれを読み、人生が影響されるかわからない。

  40.世界中でブログを始める人が多くなればなるほど、無意味な「雑音」も大きくなる。日常の出来事が綴られたり、体制と体制が提供するものが書かれたりしている無駄なブログがたくさんある。何百万もの人々が無駄話をしており、その数に圧倒されそうだ。あなたが中に混ざり、ただ自分の人生についておしゃべりし、そこに証しが含まれていないなら、ブログをする価値はない。すでにそのようなブログは数多くある。

  41.時間を費やしてブログをするつもりなら、そのための理由があるべきだ。そして、その理由は「証し」であるべきだ。自分の弟子としての資質について、また主のための人生を奨励するファミリー・メンバーへの証しか、わが言葉を聞く必要がある失われた魂への証しだ。あるいは、両方を少しずつ含めたブログになるかもしれない。いずれにせよ、ブログは証しとなるべきで、数語であろうと文章であろうと、聖句やクオート、何かを使ってわたしを頻繁に認めるものであるべきだ。

  42.御霊の実を現すものを奨励しなさい。ブログに投稿する時、覚えておくべき良い節だ。それは御霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」を現したり、奨励したりするだろうか?(ガラテヤ5:22-23) それは「称賛にあたいするもの」で、「徳」や「ほまれ」を現しているだろうか? もしそうなら、この節は「それらのものを心にとめなさい」と告げている。ブログの場合は「それらのものを書きなさい」だ(ピリピ4:8)。

  43.人生やまわりで起きる出来事がすべて楽しいわけではないが、何らかの方法で賛美したり、わたしに栄光を帰したりする理由はいつもある。そして、あなただけでなく他の人にとっても祝福にしたいなら、あなたのブログはそのような全体的な態度を示しているべきだ。

  44.ブログを内容あるものにしなさい。わたしに仕える人生の証しとしなさい。誰かが読むなら、その人はわたしを見て、あなたが異なっていること、群衆から抜きん出ていることを知るようなものにしなさい。そうするなら、わたしは羊を連れてきて、ブログを読ませるだろう。彼らはあなたを探し出し、あなたは自分の働きによる実を見るだろう。

ブログに関するその他のアイデアや秘訣:

  45.—ホーム・メンバーが証しのエピソードや写真、話などを投稿できるホームのブログを開設する。そうすれば、ホームのブログは継続したオンライン上のニュースレターとなり、友人やサポーター、あなたたちについてもっと知りたいと思っている人にインスパイヤリングな最新情報や写真、テスティモニー、楽しいイベントの報告を提供するものになります。(このようなブログを始めるなら、内容が最新のもので、良いテスティモニーになるように定期的に更新し、投稿し続けること。)

  46.—あなたのブログにネガティブなコメントが投稿された場合:あなたのブログは民主的な公共掲示板ではなく、個人のブログ(あるいはホーム個人のブログ)であり、同意しない意見・コメントを何でも削除できる権利があることを忘れないこと。事実、インターネット上で議論に発展するよりも、削除しておく方が賢明な場合が多いです。一部のブログ・ツールには、特定の人の投稿を遮断できる機能がついています(相手のIPによって)。だから、コメントを削除しているにもかかわらず誰かがしつこくあなたを悩ませ続けるなら、相手を遮断することができます。手に負えなくなってきたら、投稿自体を中止することもできます。要は、サイトにコメントを投稿できるようにしているなら、管理するのを怠らないことです。ほとんどのブログ・ツールには、コメントが投稿されるとEメールが送られる機能がついているので、サイト全体を調べることなくブログを掌握することができます。

鍵の約束:

  47.記事を書く時、証しと明瞭さの鍵を要求しなさい。わたしはあなたのコミュニケーション・スキルが高められ、読者にとって興味深く、役に立つように、また何よりもまずそれによって彼らがわたしに近づけるように思いや気持ちや意見を伝えるのを助けるだろう。

チャレンジング・ソーツ

  48.(ダッド:)傑出した者になれるのに、なぜ月並みで満足してしまうのか? 百万人に一人の存在になるよう運命づけられているのに、なぜ大衆に加わってしまうのか? あなたの光を人々の前に輝かし、人々があなたの良いおこないを見て、天にいますあなた達の父をあがめるようにしなさい。

深く掘り下げよう:

次のセクションにある、共通レター・リンクを参照して下さい。

ブログをシェパディングする

論 点:

  49.(ママ:)先の論点に関連して、ブログをどうシェパディングすればよいかについてです。何を書くかに関しては本人によるところが大きく、その点を変えようとしているのではありません。けれども、この世への証しやテスティモニー、弟子としての人生という面で、主はこれをどう考えておられるのでしょうか?

  50.主は、次のメッセージで率直に話されています。けれども、特に新しい事を告げているわけではありません。私たちは弟子であり、イエスのためにここにいます。そして、主の光を十二分に反射したいと思っています。ですから、それはブログにも当てはまります。このメッセージの一部は、ホーム・シェパードに向けて語られています。けれども、全員にとって役立つカウンセルであり、この主題に関する主の見解を知ることができて、皆さんも嬉しいだろうと思います。

神の見解:

  51.(イエス:)他の人が読めるようにいったん何かが「披露される」なら、それは会話と同等に考えられる。場合によっては、声明書として考えられることもある。弟子が自分たちの見解を広めており、その見解や意見がわが言葉にそっていないなら、彼らにはシェパディングが必要だ。ただ、それだけのことだ。

  52.人々は何らかの審査があることを承知の上で、弟子になった。事実、わたしは最大の検査官である! たとえば、わたしはすべての無益な言葉を審査すると言った(マタイ12:36-37)。すべて良いこと、愛すべきこと、正しいこと、純真なこと、称賛に値するもの以外のものを審査すると告げた(ピリピ4:8)。不平や争い、恥ずべき言葉、怒り、悪意などを捨ててしまいなさいと告げた(ピリピ2:14–15; コロサイ3:8)。これらの聖句は、「あなたの言葉がこのようなものなら、言ってはならない」と告げているのも同じである。だから、これは新しい概念でも、時代遅れの概念でもない。

  53.そして、この概念は、会話や手紙、Eメールなど自分の意見や気持ちを伝え合うあらゆる手段と同じだけ、ブログやサイトへの投稿にも当てはまる。ブログやサイトをシェパディングする最善の方法は、何か新しい基準を必要とする、今までとは違うコミュニケーション手段としてそれらを見るのではなく、中身を見るのだ。つまり何が書かれているか調べ、訪問者や新しい羊の前で言ったコメントや数人の友人に書いた手紙と同じ基準をもって判断しなさい。

  54.だから、検閲という非難や言論の自由はインターネットに当てはまらない。ちょうど、弟子やわが代理人であるあなたの人生の他の側面を考える時にも言えるように。あなたは「私はファミリーを代表して話していない。私が個人的にしていることであって、ただの個人的な考えだ」などと言うことはできない。あなたの「個人的な考え」がネガティブで、非難を招くようなものであり、他のファミリー・メンバーがそれを読んで、あなたの弟子の資質が損なわれているかもしれないとか、お粗末なテスティモニーで証しに害を与えるかもしれないと感じるなら、誰かに確かめてもらうべきだ。そのような投稿をしたことでコレクションを受けるだけでなく、何が間違っているのか、そのようなコメントを書く動機となったものを探し出すためにシェパディングと助けを受けるために。

  55.もちろん、その反面、常に言えるように、あなたはシェパードとして知恵と忍耐を用い、びっくりするようなコメント一つ一つについて誰かをこっぴどく叱るべきではない。特に、若者をシェパディングする場合、あなたはある程度、予想しているべきだ。つまり、彼らは驚かせるために何かを言ったり、わが言葉にもっと集中するという面をうっかり忘れたり、ホーム内のみんながいる所で好ましくない事を進めているかのように思われたりすることがたびたびあるということだ。それはあなたがたシェパードにとっておおごとにはならないだろう。そして、もう一度同じ事が起こるか、その若者のコメントが容易ならないものでない限り、あなたがたはそれについて何もしないかもれしない。

  56.信仰と献身度は、その人によって異なる。そして、わたしはその人が受け入れる度合いに応じて、一人一人をより高い弟子の資質へと導いている。だから、誰かの言動に一部の人たちが腹を立て、自分の基準が無視されたと感じることがあるだろう。だからといって、それがわが言葉の基準から判断して間違っているとか、実際にコレクションが必要だとかいうわけではない。何が大切で、何が大切でないか知るためにはあなた達はわたしに尋ね、知恵を用いなくてはならない。そして、自分の群れの状態を知ることも功を奏するだろう。

  57.ホームにブロガーがいて、あなたが彼らのことを知っており、彼らの弟子の資質がどのレベルかを知っているなら、彼らのコメントがどんなに深刻か、またそうでないか、どれぐらい真剣に受けとめるべきかを判断できる良い立場にいると言える。その人は弟子として献身しているので、コメントにもっとそれを反映させるよう注意が必要なだけだとわかるかもしれない。あるいは、全体的にうまくやっておらず、それほど幸せでなく、助けなくてはならない兆候だとわかるかもしれない。

  58.中には深く考えずに書いたり、思いつくままに書いたりする人もいる。それはこの世の終わり、あるいは彼らの弟子の資質の終わりを告げるものではないが、語る価値があることやそうではない事を知る良い習慣を築くよう注意し、助けなくてはならない。わたしをポジティブに反映する事を語ることや、文章はすべて、弟子のテスティモニーの一部だ。

  59.ブログと日常会話の大きな違いは、ブログに投稿された内容は後まで残るということだ。一字一句、繰り返し読めるよう、インターネット上に残る。だから、容認できないような内容がネット上に載ってしまうなら、口頭でのコメントよりも、修復すべきものがもっと多くなる。その場合、あなたは実際、その投稿を削除するか、書き直すか、お詫びや説明を書いたりするよう誰かに頼むかもしれない。クリスチャンとしての基準を保ち、間違った時には快く正すことは、ファミリーのブロガーとなることの一部だ。

  60.基本的に、ブログに特別な例外はない。言論の自由や検閲廃止などについては、インターネット上でかなり論議された。そして、そのような態度は素早く広まる。インターネットの構造自体が、「個人」を奨励する:「これは私のサイト、私についてだ。このページには私の思いが書かれている。誰も私のページを検閲したり、何を書くべきかを告げたりできない」という態度だ。

  61.だが、それは弟子ではない。他の人はそれで良いかもしれないが、あなたがたはだめだ。プロのクリスチャン、また自ら進んで弟子のルールを実践するわが選ばれた者として、自分の言葉をわたしや他の者によって変えることはできないといった利己的な考えを捨てなくてはならない。あなたは、自分の言葉にわたしを反映させなくてはならない。そうしないことでネガティブな内容になってしまったなら、それを正し、削除し、謝罪や説明、釈明など何でも必要なことをして、必ずより良い内容にすべきだ。

  62.それが、弟子というものだ。あなたはもはや自分自身のものではない。代価を払って買い取られたので、体と霊をもって、そしてそれには書かれた言葉やどんな言葉も入るが、それらをもって神の栄光を現さなくてはならない。(1コリ6:19-20)

  63.そして、あなたがたシェパードは、人々や彼らの意見、抵抗にひるんではいけない。あなたはこのような話題を取り上げたり、確認したりするのをためらうかもしれない。また、これは白黒判断がつけにくい個人的な事だ。だが、それでも、それについて尋ね、その背後にある態度を見極め、ホーム・メンバーの奉仕と弟子の資質のために霊の内で戦うのはあなたの仕事だ。

  64.あなたが祈るなら、わたしはそれぞれの状況において知恵を授ける。そして、あなたはどこまでが許容範囲内か、またいつ足を踏み込むべきかを知るようになる。

  65.そして、何よりもまずこれを忘れてはいけない。「自分の解釈ではなく、わが言葉を基準として使いなさい。」 出版されたわが言葉は、何が敬神的で何がそうでないかを判断する確かな情報源だ。また、わが言葉には、少し様子を見て、わたしのペースで適切な時にわたしがその人の人生に働きかけると信頼すること、また人々が自然に振る舞えるよう機会を与えたり、行動の自由を与えたりすることのカウンセルも書かれている。だから、あなたがわが言葉に従い、バランスの取れた方法で実践するなら、霊から外れて妥協したり、あるいはその極端に走って厳しい対応をしたりすることはないだろう。だが、あなたが自分の知恵に頼り、個人的な基準や感覚で判断するなら、面倒だけが起こるようになる。(以上、メッセージ)

追加の読み物

  66.(イエス:)ブログを始める上で、わたしが極めて重要だと考える二つの主要な点は以下の通りだ:

  67.1)それは、ブロガーであるあなたにどう影響しているだろうか? 他の大切な事をする時間を奪っているか? あなたの霊を高めているか? あなたが書いている内容や受け取っているコメントはあなたの信仰を強めているか、それとも弱めているか? それはあなたにとって楽しく、人生における祝福となっており、あなたが楽しみ、役に立っている良いアクティビティーになっているか?

  68.2)それは、他の人にどう影響しているか? それはどのようなテスティモニーになっているか? 他の人の人生にどのような実を結んでいるか? 人々をわたしに近づけ、霊感しているか、それとも落ち込ませ、わたしや霊の事から遠ざけているか?

  69.(イエス:)御霊があるところには、解放と自由と幸せがある!(2コリント3:17) わたしはあなたのファミリー・ブログと、それが提供する個人の表現の自由を気に入っている。わたしや人々に対する思いや気持ち、愛がその人にしかできない方法で表現されているのが好きだ。そして、ブログはその機会を提供できる。わたしはあなたの信仰や賛美、わたしやわが道を認めているのが好きだ。

  70.わたしは、ファミリー・メンバー一人一人に異なる表現の賜物を与えた。ファミリーが美しい理由の一つは、大勢の人が団結と信条とゴールと目的の内に共に生活しているものの、お互いの個性が保たれ、維持されていることだ。多大な愛や知恵、理解なしにはそのようなバランスを保つのは難しい。そして、このような面で成長している者たちを、わたしは誇りに思っている。

  71.だが、わたしは自由奔放さや、人が個性を表現する多種多様な方法が大好きだが、人は必ず誰かに影響を与えており、全員が良きにしろ悪しきにしろ何らかの面で他の人に影響を及ぼしているのを知っている。だからこそ、カウンセルは良いことなのだ。だからこそ、束縛したり、コントロールしたりするためではなく、相談役や敬神的なカウンセルを提供する源として、シェパディングが必要なのだ。

  72.ファミリーとファミリー・メンバーは、ほとんどひっきりなしに人目にさらされている。こっそりと語ったことが時には、大々的に世間に広まることがある。あなたの言動はすべて、人々に観察され、判断される。だから、ファミリー・メンバーとしてあなたが語ること、行うこと、書くことがファミリーやファミリーの他のメンバーを反映することになるだろう。証し人や弟子は、いつもこの事を覚えている。他の人への影響を考え、その人たちへの愛やわたしへの愛ゆえに、質問にしろ声明にしろ、自分たちの言葉と行動が人々をわたしや霊の内での真の自由に近づける手段にしたいと望むのだ。

  73.わたしは自由に賛成だ。だが、自由とは、何でも許されたり、選んだり、実行したりすることや、無秩序さではない。自由とはまず責任だ。あなたは、その自由で何をするのか? あなたの「自由」は他の人へのつまずきの石や障害物になっているのか? あなたは自分の自由がそのように評価されたり、使われたりするのを望むのか?

  74.人生における大切な事には、大きな責任がつきものだ。あなたには自分に与えられたものを賢く、愛情深く使う成熟さがあるか? もしないなら、与えられたもので自分や他の人を傷つける子供のように、しばらくの間、取り去られるかもしれない。誰でもネガティブになったり、傷つけたり、疑ったり、批判的になったりするが、おりにかなって語る言葉は銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ(箴言25:11)。

  75.わたしは誰かの自由を妨げようとか、制限したり、束縛したりしようとしているのではないが、わたしを正確に現す言葉を語り、そのタイミングを知る知恵を得てほしいと思っている。人々をわたしに引き寄せ、愛を伝える言葉だ。その逆ではない。

  76.わたしはファミリーに、個人のブログも含める人生のあらゆる面で証し人やテスティモニーとなってほしい。だが、それにはシェパディングが関わってくる。そして、中には他の人よりもシェパディングが必要になる人も出てくるだろう。建設的な批判はしばしば、受け入れるのが難しい。それには深い謙遜さが必要だが、そうするなら知恵が与えられるだろう。(以上、メッセージ)

まとめ:

  77.(ママ:)ブログは素晴らしいツール、証し、趣味、気晴らしなどになり得ます。主は、実り豊かなブログが持っているべき特質をいくつかリストアップされました。あなた個人のブログが、大切な時間を費やすだけの価値があるものかどうか判断するためです。

  78.弟子としての私たちのゴールは、イエスを十二分に反映する者になることです。そして、個人のブログもその一部です。私たちがイエスを十二分に反映する者となっていないなら、快くシェパディングを受け入れるべきです。ブログをシェパディングする目的は、人生の他の側面をシェパディングするのと同じです。

シェパードへの助言:

  79.皆さんはこれについて祈ることができます。そして、もちろんこのカウンセルを適用する上で、主の導きに自由に従うことができます。けれども、シェパディングや助けを与えようとする前に、ブログを始めたメンバーがこのカウンセルを吸収し、自分のブログやブログ習慣を評価するかどうか、様子を見てみるのは良いかもしれません。これは全員にとって新しいカウンセルであり、外部からの助けなしに人々が変わる可能性は大いにあります。そうすれば、あなたは何かしたり、言ったりしなくてすみます。あるいは、ほとんどしなくてすみます。

  80.このカウンセルを読んだ後で、自分たちのブログ習慣を大きく変えなくてはならない人たちが出てくるのは当然です。あるいは、新しいブログを始めることで新たなスタートを切りたいと思うかもしれません。けれども、このカウンセルについて考え、自分たちでまず決断を下すチャンスを与えるなら、全体的に見てもっとスムーズに事が進むでしょう。彼らにとってその方がずっと楽だし、あなたにとっても仕事が少なくてすみます。1ヶ月後ぐらいが、ホーム全体として、また個人とこのGNを話し合う良いタイミングでしょう。そして、まだ変えるべき所があるかどうか見てみるのです。

鍵の約束:

  81.識別力の鍵を呼び求めなさい。そうすれば、わたしはいつシェパディングすべきか、いつ沈黙すべきかを伝えるだろう。理解の鍵を呼び求めなさい。そうすれば、わたしはいつ祈り深く介入し、いつわたしに誰かの人生に働きかけてもらうかを伝えるだろう。

チャレンジング・ソーツ:

  82.(ダッド:)この地上において一番大切な仕事とは、証しし、神の愛と真理を人々に分かち合うことだ。だから、人生のあらゆる面を証しとしなさい! 優れた、価値ある、大きな証しになるブログにするために他の人からのカウンセルや指導が必要なら、そうしなさい! プライドをグッとこらえ、必要な場合には快くシェパディングを受け入れなさい。それは、あなたのブログを真理のログとし、大勢をイエスの光に引き寄せるという、良い実を結ぶのみなのだから。あなたのブログは、闇と交わるべきではない。この世の闇を貫く輝ける光であるべきだ!

深く掘り下げよう:

□「もしそれが御言葉でないならやめてしまいなさい」ML #1388:4?7,13,17‚ DB1

□「神のチェス・ゲーム」ML #1951:54-56‚ 74,78,96

□「御心に委ね、従いなさい」ML #2224: 10-13‚ 19-21,30-36

□「論点、パート17」ML #3480:15-18,20-21‚ 70, GN 1092

□「直言、パート8」ML #3512:31-33,132-139‚141-143,146-151, GN 1100

□FJWL 2, #370

□「言葉の力」1,3,5, ワード・ベーシックス

□「自由」2,3,7,9,14 ワード・トピックス

“Shooting Straight, Part 18”—Japanese.