CSボード評価基準の御言葉による根拠

January 2, 2005

Table of Contents

CSインターナショナル・ボード編集
FD/MM/FM

[注:この御言葉による根拠は、すでに出版されているGNやMLから編集されたものです。これらは預言やママとピーターのレターの抜粋であることに注意して下さい。ほとんどのものは、この編集物を幾分凝縮させるために、メッセージ全体は掲載されていません。この御言葉による根拠にあるGNの抜粋の幾つかは、読んだり適用したりしやすくするために、多少編集したり文章の書式を変更したりしたものがあります。]

1. ホームとして、団結、主の喜び、積極的な愛、他の人たちへの無私の思いやりや気遣い、友愛を現す。

ホームの全体的な霊は、愛情深く、幸せで、団結しており、メンバーは主の喜びを現しているべき。

「直言、パート1-言葉に尽くせぬ喜び!」より

(イエス:)幸福な弟子になるというのは、弟子としての見本の一部だ。クリスチャンとは幸せであることによって知られるべきではないのか? 規律やわが言葉を学ぶ者となることや、証人となることだけではなく、幸せな人、喜びに溢れた人となるのだ。しかも、ほんの少しの喜びではなく、言葉に尽くせないほどの喜びである。つまり、言葉では表現できないほどの喜びであり、わたしと人生について、幸福と満足と興奮で溢れ、目と顔が輝いているということだ。それが最も大いなる証しなのだ。

悪魔があなたを重荷で押しつぶすことに成功し、あなたが全く幸せでないという所まで行ってしまうと、その時あなたには、一日一日に直面するのに必要な力がなくなる。熱意を持って一日を始め、仕事を楽しみにするなら、物事はずっと簡単だ。重荷はなく、仕事をするのが楽しい。問題や何かも含めて、あなたはそれが大好きだ。たとえ重労働でも、あなたはそれが大好きだ。信仰、ポジティブさ、賛美の霊があなたを朗らかに保つ。それは、悪魔の重荷を超越するのを助けてくれる。あなたの心を高め、物事を正しい相関関係に保つ。

自分のしていることは、ある程度楽しむ必要がある。あなたの生活は楽しい経験であるべきだ。さもないと、仕事を楽しめず、人生を楽しめないだろう。自分自身のためだけでなく、一緒に暮らし、働く人のためにも、これは大切だ。周りの人は、あなたがわたしに仕えて幸せであるのを見なければならない。それはあなたの信仰を映し出しているからだ。

結局、あなたはわが意志の内にいて、フルタイムの奉仕をしており、わたしからのありとあらゆる約束や、御国の鍵や、大勢のスピリット・ヘルパーや、天国のすべての権威があなたの味方についている。あなたには、戦いに使える最新の霊の兵器がある。また、わたしからのステップ・バイ・ステップのカウンセルを聞くための預言もある。わたしはあなたに、地上にいる他のどのクリスチャンの花嫁たちよりも先に、霊の世界を啓示する。あなたはわが言葉から慰めを得ることができる。あなたには素晴らしいホームがあり、世界規模のファミリーがある。あなたには共に働く素晴らしいホームがある。わたしはあなたの必要を満たす。わたしは日々、あなたの上に愛と祝福を注ぐ。あなたは永遠のもののために働いている。あなたは魂を救っている。あなたは、それが何であれ、わたしに仕えるという仕事によって、毎日証しをしている。あなたは、ママとピーターとWSにいる人たちから、毎日祈りの力を受け取っている。ファミリーは前進している。あなたのアクティベーテッドの羊たちは成長している。

わが祝福はあなたの周り至る所にある。だから、わたしのために生きることの素晴らしさに思いを集中させるために必要なことは、何でもしなさい。仕事によってあまりにも荷を負ってしまうなら、あなたは倒れ、燃え尽き、到底、最後までやり遂げることができない。わが霊の「幸福剤」を飲みなさい。それはあなたにとって、わたしと二人きりの時間を取って再び満たされることや、心の底から賛美できるまでプレイズタイムをすること、チームメイトから祈ってもらうこと、鍵を暗記すること、あるいはただリラックスし、ウサギの耳を頭につけて子供と遊んだりなどして、子供と楽しい時間を過ごすことかもしれない。あるいは、この全部かもしれない。何にせよ、どうか悪魔の鎖に抵抗し、わたしにあって幸せになってほしい。

あなたは、人生に再び喜びを注ぎ入れてもらうことができる。喜びの鍵を要求し、その結果を期待しなさい。それはあなたにとって力となり、仕事をずっと簡単に、楽に、さらには楽しいものにするだろう。

(イエス:)この戦いにおいて、誰にも太刀打ちできない賛美の武器を忘れてはならない。悪魔は何でも使ってあなたを押しつぶそうとするだろうが、賛美の武器は、あなたが悪魔の毒手から抜け出て高く超越するのを助ける。あなたが賛美し始める時はいつでも、わたしはそこにいて、わたしのような見方で物事を見るのを助け、信仰、平安、わたしへの信頼であなたを満たす。そしてそれは、あなたがリラックスして、心底幸せになり、わが喜びで満たされるのを可能にするだろう! 重荷を負いすぎている時には、本当に幸せになることはできない。だから、そんな風に感じる時はいつでも、わたしを賛美し始めなさい。賛美の武器を作動させ、悪魔を追い出しなさい! 賛美すればわが霊が降り注ぎ、あなたの喜び、つまりあなたの内にあるわが喜びや、天国的な物事の見方が戻ってくる。愛しているよ!(ML #3499/GN 1086:152, 157-162)

「イエスと一緒に楽しもう」より

(イエス:)わたしはあなたの回りに、わたしを喜ばせようとする尊い人たちを置いた。あなたと暮らし、あなたの仕事仲間、チームメイト、ラブ・メイト、ワード・メイトとなるようわたしが召した、選ばれた人たちを。あなたは永遠に彼らと一緒にいるわけではない。だから、若いか年長かに関係なく、一緒に暮らしている人たち全員と、フェローシップや共にいることを楽しむ時間を取りなさい。わたしの目には一人一人が尊いからだ。それぞれに、与えるべき多くの愛と理解があり、それぞれが多くの愛と理解を必要としている。だから、一人一人を、わたしの目で、わたしの見方で見なさい。

かけがえのないわが花嫁の一人となり、あなたのホームを幸せなホーム、満たされたホーム、有益なホームとするために、自分の分を果たしてくれて、ありがとう。また、ファミリーへの愛と、忠誠心、献身ゆえに、わたしが信頼し、逆境の日々に頼りにできる、強いスタッフ(訳注:杖の意もある)になってくれて、ありがとう。

(ママ:)しっかりと結び合わされたホームにするためのもう一つの鍵とは、一緒に楽しいことをしたり、互いに一緒にいることやフェローシップを楽しむことにあります。みんながとても忙しい時には、そういう面を忘れがちです。そして、私たちは皆、主のための仕事でいつも忙しいのです。でも、より大きな結婚に注ぎ込む時間は、価値あることに費やされた時間と見なしなさい。一緒にくつろいだり楽しんだりする時間を見つけるのが難しいなら、ただ、それをスケジュールに組みなさい! これは大切です! これはほとんど仕事の一部と称すことすらできます。有能でしっかりしたチームとして共に結び合わさる助けになりますし、さらに良い仕事ができるようになります。ですから、楽しいことをしたり、一緒に遊んだりする時間を取りなさい! アーメン?

(ダッド:)だから結局言いたいのは、楽しみなさい、ということだ! お互いを楽しみなさい! あなたが共に暮らし、働き、楽しいことをしなくてはならない、今の天国の日々をいつくしみなさい! どれだけ互いを感謝しているかを告げ合いなさい。語り、ハグし、共にリラックスする時間を取りなさい。そうする価値が十分あるだけの益が得られるし、ホームとしての団結も増す。そして、最終的には仕事の生産性も向上する。もっとしっかり結び合わされ、摩擦も少なくなって、問題や誤解を解決するための時間も減る。そして、仕事をやめて休憩を取る時、あなたはそれを心から楽しむようになり、その時間はもっと元気を回復させてくれるものとなるだろう。だから全ての面で、それは価値がある! アーメン?(ML #3437/GN 1020:65, 68, 114, 121)

互いを思いやり、他の人の幸せのために犠牲を払い・・・

「イエスと一緒に楽しもう」より

(ママ:)団結を高めるのに大いに役立ち、その結果としてホームの全体的な基準や霊を高める助けになる一つの面とは、他の人の荷を軽くし、物事をうまく行かせるために、一人一人が自分の義務以上のことを喜んですることに関係しています。

(イエス:)多くの人にとって改善の余地がある一つの分野とは、兄弟を優先し、もっと助け、必要に気がついて、ホームで助け合うための余分なステップを踏むことだ。これは個人の選択だ。わたしが一人一人に語ることは、それぞれ異っている。わたしは、様々な人に、助けとなるためにできること、兄弟姉妹の負担を軽くするためにできる様々なことを示す。そのステップを踏み、犠牲を払い、愛情深いことをし、わたしが示していているような助けになるかどうかは、その人次第だ。あなたがわが霊と愛の内に歩み、一人一人が少しずつ余分に行っていけば、個人の負担や過度の重荷はなくなる。物事は平等に分配され、全員が共に、より幸せになるだろう。

わたしは、親切や、犠牲、利他的な行為の一つ一つに報いる。そのような行動一つ一つが真空を作るのであり、わたしはそこに、わが喜び、充実、満足、愛の霊を注ぎ込むことができる。わたしはあなたに報い、あふれんばかりに満たし、百倍を与えたい。だから、あなたがどのようなステップを踏み、どのような犠牲を払い、どのような助けを貸しても、わたしはそれ以上に報いるだろう。そして、そうすればするほど、あなたのホームは愛に溢れる。これはホームの霊を強め、改善する。また、ホームの物質的な基準も上げることになる。もっと清潔になり、オーガナイズされ、手つかずのものや、放ったらかしのものは少なくなる。一人一人が自分の分を果たし、わたしが求めることを行うからだ。あらゆる面で、よりすっきりしてインスパイヤリングになるだろう。(ML #3437/GN 1020:57–59)

愛情深くコミュニケーションを取り合い、チームワークで働き合い、霊の友愛を現しているべき。

「コミュニケーションの鍵! 団結のための実際的秘訣、パート2」より

(ママ:)コミュニケーションは非常に大切です。私たちが他の人達とつながるための媒介ですから。主は、コミュニケーションがあろうとなかろうと、私たちの心を知っておられ、主は私たちがどんな人か知っています。でも、他の人は皆、普通、私たちとのコミュニケーションによって知らなくてはいけません。つまり、誰かとのコミュニケーションの仕方によって、その人が私たちをどう見るかが決まり、その人は、私たちとのコミュニケーションによって、私たちがどういう人かを知るのです。他の人たちとのコミュニケーションや、自分の言う言葉や、言い方や、説明の仕方について、あまり努力を払わないなら、あるいは、それをあまり大切とは考えないなら、あなたはおそらく何人かの人たちと折り合いが悪く、真に団結することができず、そのために、主があなたにあげたいと思っているほどに主の祝福を受け取ることができません。だから、コミュニケーションは非常に大切なのです。あなたがたの団結や、他の人達のあなたに対する感じ方に直接影響を及ぼし、さらには、あなたの実り豊かさや幸せや、人生のあらゆる面に影響を及ぼすのですから!(ML #3323/GN 927:2)

「リーダーシップのレッスン、パート3」より

(イエス:)他の人に心を打ち明ける時に生じるかもしれない問題を避ける方法は、愛、謙遜、そして祈りを通してオープンで正直なコミュニケーションを取り、個人的に、そしてコミュニケーションの相手と共にわたしから聞くことである。愛、謙遜、祈り、すべてをわたしに尋ねること、わたしがあなたがたの手に置いた鍵を使うことは、すべての問題を解決する。これこそわたしの霊の完全な法則であり、両側がそれを適応しなくてはならない。コミュニケーションは両側通行であり、両者がこの原則を当てはめなくてはならない。(ML #3386/GN 986:27 point 2)

「愛情深い接し方! コミュニケーション、正直さ、オープンさについての実際的な秘訣!」より

(イエス:)ここにあるのは、相手が夫や妻、シェパード、仲間、若者、年長者、友達、仕事仲間など誰であれ、良いコミュニケーションを持つために必要な、鍵となる要素を並べたリストだ。

正直さ。コミュニケーションに正直さがなければ、誤解が生じる。誰かと人間関係をうまく始めたい場合に持っていると良い基礎とは、完全に正直でオープンになることだ。

機転。完全に正直にならなければならないと気づいたら、すぐに祈って、ものの言い方を祈り深く、愛情深くできるようにわたしに求めなければならない。特に繊細な傾向がある物事はそうだ。まずシェパードとじっくり話して、どう説明すればよいかカウンセルを得たり、さらには言う必要があるかどうか知る方が良いこともある。まず何よりも、わたしに尋ねなさい。わたしは何が最善か知っており、何が謙遜で愛情深い行動かを示す。

愛。愛が動機となって、他の人たちに対して正直で誠実になり、また適切な状況において機転を効かせようという気持ちになる。

知恵。できるだけオープンになるべき時と、言葉にもっと気をつけるべき時を知るには、知恵を求めて祈る必要がある。

敏感さ。ここで言う敏感さとは、他の人の必要に対して敏感になり、心づかいを行き届かせることだ。コミュニケーションをするうえで、相手の気分や感情に敏感になろうとするのは助けになる。例えば、その人が昼寝の直後よりも夕食の後のほうがもっと受け入れやすい気分だと知っていたなら、話す時間は夕食後のほうがいいだろう。自分にしてほしいと思うように他の人にもしてあげなさい。

勇気。つまり、コミュニケーションに対する恐れとためらいを克服し、肯定的な反応を期待する信仰を持つことだ。

タイミング感覚。タイミングはコミュニケーションにおいてきわめて重要だ。もちろん、毎日人と話し合うささいな事柄であれば、単にちょくちょくコミュニケートするのはもっと大切だ。だが、話す内容が少し微妙で、プライバシーを要することであったり、誰かにとって喜ばしくない知らせやチェンジを意味する場合は、相手が緊急のプロジェクトの最中だったり、てんてこ舞いの一日を終わらせようとしている時でないタイミングを選ぶのが賢明だ。

祈り深さ。心の中で祈り深くあり、常に知恵を求めて祈っているのは、どんな状況においても良い。「言葉が多ければ罪を免れない。」 だが、口に出してよく祈ることも、他の人とのコミュニケーションのうえで身につけると良い習慣だ。仕事に関係した事柄や、何か繊細な事柄を話し合わなければならない時や、またはただのフェローシップでこれからどんな話題が出て来るかわからないような時など、少し中断して祈りを言うといい。わたしを認めることは、もっとペースを落とし、互いとわたしへの尊敬心を持つ助けになる。またあなたたちの時間を、人を傷つけたりくじけさせたりする時間ではなく、有益な時間にする力をわたしに与えることになる。

忍耐。良いコミュニケーションには忍耐が必要。人は皆違っていて、問題の見方や解決の仕方も違っている。だから、他の人の見方でものを見、互いに同意できる共通の基盤に達するには忍耐を要する。

敬意。他の人の意見や気持ちを尊重しなければならない。コミュニケーションにおいて敬意が最も明らかに表れる方法とは、口をはさんだり、せかしたり、相手の言いたいことを代わりに言ったりせずに、相手に言い分を言わせることだ。

ユーモアのセンス。気を楽に! しばしば人は言いたいことを心にためていて、ついに思い切ってそれをコミュニケートする段になると、強い口調になったり、自己弁護的になったりする。話が緊迫しすぎたり、必要以上に深刻になりかけたら、一緒に肩の力を抜きなさい。

沈黙。そう、意外なことに、沈黙、いやむしろ耳を傾けるというわざは、コミュニケーションにおいて時々必要とされる資質だ。相手が意見を言っている時に、これから自分が何を言うかだけを考えているなら、同意に達そうとしても無駄だ。賢いふくろうのようになりなさい。口数が少ないほどもっと良く聞ける!

他の人へのオープンさ。人の意見にオープンになるよう習慣づけているなら、人々はあなたとずっとコミュニケーションしやすくなる。

謙遜さ。自分は常に正しいという態度をいつも取っているのは割に合わない。プライドほどコミュニケーションを行き詰まらせる習性はない。また、風と太陽のたとえ話のように、人の言い分をじっくり聞き、誠実に意見を考慮に入れて謙虚な態度でいれば、人はあなたの意見にももっとオープンになる。

ちょくちょくコミュニケーションする。良いコミュニケーションは特別の機会だけに取っておくのではなく、日常生活の一部であるべき。頻繁にコミュニケーションする人たちは、最も互いを理解することができ、問題が持ち上がっても克服しやすい。

明確さ。説明に説明を重ねなさい。あなたは自分の言いたいことを相手が正確に理解していると思うかもしれないが、意外なことに、毎日の生活で、明確さが足りないためにたくさんの誤解が生じている。自分の言いたいことを相手が理解しているか定かでなかったら、尋ねなさい! そのほうが当て推量よりもずっと能率がいい。

話す。これを滑稽(こっけい)だと思う人もいるかもしれないが、誰かとベッドにいる時あれ、一緒に仕事をしている時であれ、問題を解決しようとしている時であれ、はっきりしない暗示や、合図、あいまいなメッセージなどを唯一のコミュニケーション形態と決めてしまっている人が大勢いる。残念なことに、こうしたコミュニケーション形態の成功率はごくわずかで、互いに、そして何よりもわたしと話すことに勝るものはない。試してみなさい!

進んでしようという気持ち。コミュニケーションには紛れもない努力を要する。多くの努力を要するが、友情、調和、団結、円熟した人間関係という報いは、費やしたエネルギーに十分に価する。進んでしようという気持ちがある限りは!(ML #3234/GN 837:10-28)

「立ち上がり、乗り越えなさい、パート1」より

(ママ:)・・・一緒に働いているか、一緒に住んでいる人たちは誰でも、あなたの「チームワーク」であり、互いのセーフガードになるべきです。・・・

クリスが説明してくれたのですが、彼のホーム・チームワークは、一緒にくつろいだり、食事したり、フェローシップしたりする時間を取ります。また、WSユニットのチームワークもそうです。それは、チームワークを強化するのに非常に良いアイデアです。親しい友達どうしになり、個人的な事柄についてもオープンになるなら、助けになります。そうすれば、同胞愛を抱き、霊の内で支え合い、何でも話せ、互いに励まし合える人がいると感じるようになります。もちろん、あまりうまが合わないか、仕事上の関係がどちらかと言うとビジネス上の関係であって、あまり個人的なものではないことがあるのも、自然なことです。けれども、本来はそうあるべきではありません。有能なチームワークになるには、それを超えなければなりません。

あなたのチームワーカーが元々しっくり行くような人でなくても、関係ありません。主があなたたちを共にされたなら、主は、あなたたちが互いにバランスを取り合い、良いチームになれるとご存じのはずです。そして、その方向に努力しなくてはなりません。自然にそうはならないからです! 悪魔は戦っていきます! あなたたちの多くはその面に働きかけなければなりません。(ML #3497a/GN 1082:123-125)

他のファミリー・メンバーであれ、外部の人であれ、ホームを訪問する人々は、先に述べた資質を通してあなたのホームとメンバーたちの中に主の霊が現れているのがわかるべきである。

「さらに鍵について!-私たちの将来、パート3」より

(イエス:)愛する者よ、今は新しい日だ。そして、その輝きであなたを驚かすようになる日である。「後の日」という言葉同様、新しい日は常に新たにされている。あなたが経験しているこの新しい日とは、絶えず、わが霊が大量に補充されることである。この世はどんどん暗くなっているからだ。

世の中がどんどん悪くなり、邪悪さがもっと受け入れられ、普通のこととなっているのに気づくのは難しいことではない。映画は暴力で満たされている。幼い子どもが他の子どもを殺している。ソドミー、麻薬中毒、暴力的な犯罪や暴力的な政府による抑圧は普通のこととなっており、目を見張るようなものにはなっていない。

闇は増し加わったものの、光はますます満ちあふれるだろう。わたしを信じる者の心と霊、目と微笑み、その輝く顔の内にあるわが愛の明るさは、ますます強く輝くようになる。その輝きは大いなるものとなるので、人々は驚くだろう。人々は、たとえあなたが何も言わなくても、鉄が磁石に引き寄せられるようにわが子らに引き寄せられる。あなたの顔に見える愛、輝き、その幸せが、彼らをあなたに引き寄せるのだ。

それからどうなるのか? わが願いは、このアクションの時代に、あなたが心と人生の内に、かつてなかったほど大量にわが愛のアクションを経験し始めることだ。男性も女性もあなたに引き寄せられ、あなたのことを知り、このような喜びや愛や幸せの原因を知りたがる時、あなたの表情や外に見える行動、言葉だけでなく、内面からわが霊の美しさを同じぐらい輝かせることが必須になってくるからだ。

だから、わたしはあなた個人の人生において、あなたがた全員のために奇跡を行う。あなたの微笑みや表情、その紛れもない幸福感により人々が引き寄せられる時、彼らがあなたの内にある同じものを見い出すことを願っている。わたしは、彼らがあなたを知ることによって、わたしを知るよう願っているのだ。

つまり、わたしはあなたのホームが、平安と喜びと幸せの天国になることを願っているということだ。あなたが文書やテープ、ポスターやビデオを配布していたり、アクティベーテッド購読契約を取っていたり、フォローアップをしていたり、誰かを訪問していたりする時にだけでなく、ホームでの毎日の日常生活において、これらの資質を示してほしいのだ。愛と与えることと理解と利他的な雰囲気を持ってほしい。それによって、あなたが新しい人をホームに連れてくる時、彼らがあなたの個人的な欠点を見てがっかりするのではなく、日常生活において、わたしのために命を捨てる者たちの美しい見本を見て、わたしに近くなるようにである。

わがファミリー・ホームが、このような団結、愛、シェアリングを示すのは必須である。わたしはあなたがたの元へ、失われた羊をどんどん連れてくるからだ。彼らはあなたのホームにいるようになる。彼らはあなたの見本を見る。彼らはあなたの霊にあずかるようになる。そして、あなたは彼らに誰の霊を見てほしいのか? わたし以外のものにあずかってほしくはないだろう。どんな利己的さや口論、愛の欠如、与えることの欠如、団結の欠如にもだ。あなたは彼らに、わたしが与えたあらゆるポジティブな資質を経験してほしいと思っている。愛や分かち合うこと、犠牲的に与えること、平安、調和、団結だ。

だから、これはわたしがあなたのホームで行う奇跡の一つである。あなたがわが霊に譲渡することで、あなたの高められた信仰の賜物、超越する能力、わたしが与えた御国への鍵を用いて、あなたはホーム内で、団結や愛、分かち合うこと、調和の内に生きるための、高められた能力を持つようになる。あなたは、そうするためのわが霊をもっと持つようになる! そうするための天国の力をもっと持つようになるのだ! そして、あなたのホームは、生活し、食べ、子どもの世話をし、個人的なことを行うための場所だけでなく、わが羊がわが霊にあずかるために、わたしが連れて来ることのできる、平安と愛とスウィートな調和の避け所になるのだ。

そこは、大きな愛の雰囲気でいっぱいになるだろう! 大いなる理解、素晴らしく与えること、譲り合う精神でいっぱいになる! 相手が幸せで、充実していて、必要なものすべてを持っているのを見たいと強い願いに溢れるだろう。

愛する者よ、これが一夜で起こるのを期待してはならない。だが、わたしはあなたに対して、この約束の範囲を広げている。わが計画が継続するためには、これがとても必要だからだ。あなたがもっと彼らに手を伸ばし、アクティベーテッドの教材を使い、フォローアップするというわが忠告に忠実に従っていけば、あなたの友人や羊、コンタクト、親戚、知り合いは、あなたの所に来るようになる。そして、あなたのホームは、つまりホームが示す霊や雰囲気、霊の資質は、わたしがこの時期に使いたいと思っているもう一つのツールである。

だから、これらの約束に手を伸ばしなさい! あなたのホームのために要求しなさい。それによってあなたのホームが、わたしが定めたような平安と愛の避け所になれるように。人々が中に入った時に、わが霊を感じるようにしなさい。人々はそれを感じる。あなたの内面の生活、秘かな思い、兄弟姉妹との接し方におけるあなたの動機は、愛だからだ。あなたの動機は、互いに愛し合うという、わがいましめを果たすことなのだ。

「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」というわが言葉を覚えていなさい。それによって、あなたは多くの実を結ぶ。それによって、あなたは大勢が自分の囲いに加わるのを見るだろう。それによって、大きな拡大化を見るだろう。それによって、より大きな奇跡というわが約束が実現するのを見るだろう。それによって、あなたを祝福するためにわたしが行うあらゆることを見て、驚くだろう。なぜなら、あなたは従ったからだ!

あなたが従い、わが霊に自分を満たさせ、ホームを治めてもらうことで、あなたは、供給やいやし、奇跡、さらなる拡大化の約束の成就を見る。あなたはただ、わが霊に支配させればよいだけだ。問題が起こった時は、このように考えなさい。「自分にできる、最も愛情深く、謙遜で、最も与えること、最も御霊に満たされていることは何だろうか?」と。あなたはわたしにすべてのことを尋ねる訓練をしているので、わたしはそれぞれの段階において導くだろう。あなたがわが霊の内に休み、わが霊に満たされるにつれ、わたしはあなたに、どんな日常の問題でもすべて超越するための、より大きな能力を与えるだろう。

これにはいくらか訓練を要するが、一歩踏み出し、次の一歩、次の一歩と進むにつれ、あなたはわが愛が毎日、もっと満たしていくのを見るだろう。まわりであらゆるチェンジが起こるのを見るだろうが、特にあなた自身のチェンジを見るようになる。

これらは、あなたが下すべき小さな選択である場合が多い。わたしとあなた以外、誰も知らないようなことかもしれないが、あなたが持つ霊は、これらの選択に影響する。あなたのホームの霊は、与えることや分かち合うこと、愛することに関して、ホームとしてあなたが下す個人の選択に影響するようになる。だから、いつもこれらのことを選び、わたしが語ったことをあなたの内に実現するというわが約束に頼っていなさい。そうすれば、わたしはそうするだろう。

信頼し、従い、信じ、行動しなさい! そして、わたしはあなたのホームを、わたしのヒナの弟子たちが成長する巣のような平安と愛の避け所とするために、わたしの分を行うだろう。愛している! そして、あなたと共に、ホームの巣で新しいこれらのヒナを育てるのを心待ちにしている! 愛をこめて、父さん鳥であるイエスより。

(ママ:)ファミリーの初期の頃、私たちは共同生活の見本の力を強く感じていました。羊に「来て、見る」ようにさせるなら、私たちの団結や愛、お互いに対する犠牲的な思いやりは、大抵の場合、愛の神の存在について彼らが持っているどんな疑いも消すに十分なものだと知っていました。初期の頃には、幸せな共同生活の見本を壊すものは何でも、霊の深刻な裂け目、ひどく、かつ危険な敵の攻撃と見なされていました。

残念ながら、状況は変わりました。そして、多くの兄弟が、愛と幸せの内に共に生活するという見本がどんなに大切かについてのビジョンを失ってしまったようです。悲しいことですが、本当です。私はホーム内での憤慨心や苦い根、口論、団結の欠如に関する哀れむべき話を数多く耳にしました。CROたちは、幾つかのエリヤでは、ホームメンバーが共に生活できないため、ホームが分かれ、その後、その同じメンバーの人たちが他の人と一緒になるのですが、時が経つとそのホームも分かれてしまう風潮がある、と報告しています。これは繰り返し起きています。・・・利己的さと愛の欠如のせいで、大勢の人にとって、共同生活することがほぼ不可能になってしまったのです。

これは重大な問題です。正さなければなりません。希望に満ち、答を求めている飢えた人たちをホームに訪問させておいて、御言葉やアクティベーテッド出版物で読んだものが、あなたたちの人生で現実となっていないために、がっかりして帰らせるようなことがあってはなりません。あなたの愛や団結の欠如、口げんか、冷淡さによって主の小さな羊をつまずかせるなら、神はあなたにその責任を問われるでしょう。人々は、あなたが説くことに生きているかどうか見たいのです。あなたはどうでしょうか?!

幸せな天のホームの「ルーツに戻る」ための力は、鍵の中にあります! 今読んだばかりのメッセージで主が説明されているように、ホームで愛と調和の内に生きるための高められた能力をもって、超越することができるのです。別のメッセージで、主はこのポイントについてこう強調されました。「わたしは、苦闘しているわが子どもたちに、わたしが与えた賜物によって、団結への新たな希望を持つことができるのを知ってほしい。大勢の者が、ある兄弟たちと団結の内に生活できるという信仰を失ってしまったからだ。不和の川の流れはとても深く、この超自然的な力を知ることなしには、彼らは団結を回復しようと試みることもなく、ただ現状を維持してしまうだろう。だが、団結はこれらの賜物の中でも最大で最も大きな影響があるものの一つ、多くの他の実や祝福をそれと共にもたらすものである。」(イエスからのメッセージの終わり)

だから、ファミリーの皆さん、あなたにはできます。試してくれるでしょうか? 団結を保つために努力してくれるでしょうか? このメッセージについて考える時、心を探って、自分はどのような状態か、ホームはどうやっているかを確かめて下さい。あなたのホームは愛と喜びと平安の避け所でしょうか? どうか、そのような場所にして下さい!(ML #3354/GN 947:84-89‚ 94–108)

「主の愛の律法に生きる!-パート2」より

(ママ:)主は、ご自身が求めておられるような愛に満ちた方法で生きるほど十分な愛を、私達が生まれついて持っていないことをご存知です。でも次のメッセージを読めば、それを言い訳に出来ないことがわかるでしょう。私達に出来ないからといって、主が私達に求められないということではありません。主が私達に代わって、私達を通してされるからです! 主は私達に必要な愛を与えることが出来、私達を通してご自分の愛を注いで私達を新しい創造物にすると約束されました!

(イエス:)わたしがわが子供達に求めているのは奇跡だ。わたしは積極的で犠牲的な愛を求めている。自分を守り、自分の益を求め、自分を満足させようとするのは人間の性質である。他人よりも自分の必要を第一に置き、何とか生き延びようとするのは人間の性質だ。だがそれは、わたしを知らないこの世の人間の方法である。わが子供達には大きな利点がある。わたしが彼らの生まれながらの回路を閉じたからだ。わたしは線を切り、わたしの思い通りに動くよう、すなわち他の人を愛するよう、心と思いを配線し直した。これは素晴らしいテスティモニーである!

弟子達と一緒にいた頃、わたしは言った。「あなたがたが互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての者が知るであろう」と。当時、この愛は大いなるテスティモニーだった。大勢の関心を引き、みんな目を見張ったものだ。だが人々が自分自身と自分の欲しいものや必要、願望に食い尽くされている今の時代に、この愛はさらにどれほど奇跡的であることか。人々は犠牲的に愛することから完全に自分を閉ざしてしまった。結婚でさえ、もう利他的な愛の上に築かれていない。ひどい暗闇、まったくみじめなものだ!

だがこの愛の欠如も、わが子供達の愛がもっと明るく輝くのに役立つだけだ! わが子供達の愛は、愛と導きと奇跡と力と強さを示す火のようである! このような愛が世のものではないことを、人々は否定できない。「そんな愛をどこから手に入れるのか? どうすれば一緒に生活できるのか? どうやってそれをしているのか?」 ああ、わが子供達がわが愛の素晴らしいテスティモニーとなる時、わたしは大いに満足を感じる!

今の時代は愛に対する必要がさらに大きい。人の心がひどく冷たく、かたくなになってしまったからだ。人々はもうわが霊のやわらかい輝きに敏感ではない。行動に移された、真っ赤に燃える強烈なわが愛の力の輝きが必要なのだ! 自分達の真ん中で明るく輝く巨大なかがり火のようなわが愛を見て初めて、人々はそれに気づき、悟り、信じるようになる。このため、わたしはダビデの子供達の前にチャレンジを設け、もっと深く、もっと犠牲的に、もっとわけへだてなく愛することを求めたのである。

これは生まれついた能力をはるかに超えている。自分達の中にそんな愛を見つけるなど、あなたにはとても出来ない。これを自分の力、肉の腕でしようとすれば、必ずがっかりし、いらだち、重労働に疲れてしまうだろう。だがわたしに呼ばわり、ただ必要な愛をわたしに求め、その愛を信仰によって行動に移すことをいとわないなら、ものすごい量と力をもってわが愛を与えよう。そして、あなたは奇跡を見たと知るだろう!

それには必死の祈りと信じる霊と喜んでする思いと心が必要だ。そして利他的な愛の小さな一歩をいくつも踏み出して従いなさい。そうすれば、あなたは新しい創造物となる。あなたは他の人のことを考え、もっと思いやりを持ち、さっと他の人の必要を感じるようになる。自分の計画やアイデアを喜んで手放し、弱い者を思いやるようになるだろう。

愛は行動、愛は行ない、愛は積極的な思いやりである。だがそれが永続するには、このすべてがわが手から出なくてはならない。わたしはあなたにたくさんの愛を用意している! ダビデの子供達がただ求め、必死の心でわたしを求め、これが可能だと信じさえすれば、そしていつでも喜んで何でもし、他の人に対する敏感な恋人になることをいとわなければ、わたしは愛の洪水を注ぎ出す準備をして待っている。

わたしは奇跡の神である。あなたにこの愛の奇跡をあげよう。この新しい愛の塗油、すなわちわが力、わが顔、わが人格をあげたいのだ。わたしは愛である。以前にましてあなたはもっとわたしを持つことが出来る。求めよ、そうすれば与えられるであろう!

 (ママ:)覚えていて下さい。主はあなたに、他の人に自分を与えるための、そして自分よりもまず他の人の必要を満たすための強さと恵みと力を下さるのです。あなたがただ主に求め、主の御霊で満たしていただき、自分の命を捧げるならば、そうされます。あなたには出来ません。でもイエスには出来ます! そして主に任せるなら、そうして下さるでしょう!(ML #3202/Vol 25:43-52)

ホーム内の人と他のホームの人たちとの両方と団結して暮らす。

「分裂の危険-確信対妥協、パート2」より

(イエス:)わたしの祈りは、天の父とわたしが一つであるように、あなたがたも一つになることである。わがファミリーは団結の内に共に集わなければならないとわたしが告げる時、それは愛と、一つになることの内に共に集うことを意味している。わたしは御言葉の中で、あなたがたが持つべき団結の例を幾度も与えた。これらのことを聞いたなら、そうすべきである。

一つになり、団結し、団結の内に生きるには、大勢がその利己的なライフスタイルを変えなくてはならない。順応し、毎日の生活に譲り合いの精神を取り入れなくてはならない。わが愛の憲章にそって実際的に言うと、それは自分のやり方にこだわらずに多数決の決定に従うこと、喜んで人とカウンセルし、人のために、また人と共に祈り、わたしから共に聞くこと、これらの言葉を行う者になり、聞くだけの者にならないことを意味する。

わたしは、兄弟が和合して、共にいるのはいかにうるわしいことかと言った。団結の内にあなたがたは強くなるからだ。あなたがたは表面上だけの団結ではなく、霊と肉の内で真の団結を持たなくてはならない。

団結は、愛と同義語である。団結はあなたがたの内に愛を持つことだ。団結は一つの思い、一つの心、一つの霊になることだ。団結は、愛の内にすべてのことをすること。それは敵を叱責し、あなたがたの内のあらゆる争いを拒むことだ。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。団結は、自分よりも他人を優先させることだ。その気分でなくても、助けを必要とする者を助けるためにへりくだることである。団結とは、祈りの内にお互いを支えること。助けを必要とするメイト、兄弟姉妹のために祈りによってとりなすことである。団結とはへりくだった思いと柔和さの内に歩むこと。プライドを捨て、謙遜なことをするのを選ぶことである。

団結とは、寛容である。必要とあれば黙っていることである。団結は平和を保つ。団結はお互いに憐れみを持つことだ。相手の立場に立って1マイル歩いてあげることだ。団結は親切さだ。ごう慢ではない。虚栄を求めない。団結は憎しみではなく、愛を広める。恨みではなく、ゆるしを広める。団結は反対しない。共に同意しながら、手に手を取って歩く。

団結は愛の絆である。団結には引き寄せる力がある。決して拒まない。団結は絶えず他の人に手を伸ばす。人を中に入れる円を描く。団結の内には利己的さはない。団結は与え、与え、与え続けるからだ。団結は賛美と感謝の気持ちである。不平はない。団結は共にしがみつき、共に集い、共に行い、共に働き、共に勝ち取る。

団結はお互いを信じ、信頼し、託することだ。団結はコミュニケーション。団結は助けること、分け与えること、思いやること、理解すること。団結は犠牲。それは他の人のために自分の時間を与えること。団結は、他の人の幸せをまず求めること。自分よりも、まず他の人の必要を考える。団結は築く。決して、壊すことはない。団結は謙虚さ。団結は思いやり。団結は行動に現された愛。団結は、自分と同じように隣りにいる人を愛すること。団結は決して傷つけたり、切り離したりしない。いつも結び合わせる。団結は力である。団結は至高のものだ。

このような団結を、わが子どもたちは持つべきだ。川を渡り、山を登り、奇跡を行い、不可能に挑むのはこのような団結だ。

団結はわが最高の意思を行い、わが言葉に従い、わたしを第一の場所に持つことを心から決意した者全員のためだ。団結は、わが王国を第一に求めながら同じものを望むわが弟子に下る祝福である。団結は皆が同じ方向に進み、わが言葉の中で定められたゴールを自分のゴールにすることである。団結とは妥協と同義語ではない。それは、共にわが最高の意思に到達することだ。団結は、ゆるしという最初のステップを取ることで見い出される。それから、意見の相違を取り除き、問題を解決し、わが言葉の基準を保つようにし、わが薫陶と訓戒の内に子どもたちを育てることで一歩一歩、わたしに従うことによって見い出されるのだ。

(イエス:)わたしの今日の切なる祈りは、地上を去った時と同じものだ。あなたがたが一つとなることである。わたしと父が一つであったように、あなたがたも一つとなるか、それとも自分自身の願いを選んで出るかのどちらかを選びなさい。団結することを選ぶか、それとも自分のわがままな心に従うかを選びなさい。そんなにも単純だ。あなたが宿命を果たせる唯一の方法とは、また、鍵にアクセスできる唯一の方法とは、すべての不可能を超越するパワーを持つ唯一の方法とは、団結の力の内にある。アクションの時代のこの戦争に勝つ唯一の方法とは、団結によるものである。

わたしにしっかりついて来る者たち、御国の鍵を使う者たち、超越する力を持つ者たちに対して、終わりの時にわたしが求めるのは、一つとなることである。他に方法はない。団結の力の内にのみ、あなたがたの輝かしい未来についてわたしが語ったすべてのことが実現する。団結する者たちだけが、わたしが語ったことを成就することができる。・・・

ダビデの軍隊に残る者たちは、どんな代価がかかろうと団結を追い求めなくてはならない。わたしの愛の律法に生き、団結の内に共に暮らし、ビジョンとゴール、心と思いと霊の一体化の内に団結するよう、励まなければならない。

わたしは、あなたがたの間で団結を保つために励むことを通して、わたしへの信仰を表すことを求める。そのためには、これらの行動を取りなさい。

--愛と謙遜とコミュニケーションと祈りを通して、違いを解決するために協力し合う。

--間違っているのは相手の方だと感じても、謙遜な立場を取り、謝る。

--問題における自分の責任とは何かをわたしに尋ね、それを正すことをいとわない。

--自ら罪や間違った態度を告白し、団結した祈りを受ける。

--「どんな代価を払おうとも」の祈りを祈り、あなたの人生においてわたしに働かせる。

--団結の邪魔になっている、あなたの強い性格を克服するよう働きかける。

--兄弟たちにセーフガードになってくれるよう頼む。

--必要な時にはコレクションを求める。

--柔軟性を持ち、譲り合いを学ぶ。

--相手にとって有利に考える。

--誤解され、拒まれたと感じても、忍耐強く愛情深いコミュニケーションを続ける。

--愛と謙遜の内の他の人の所に行って、コミュニケートし、解決策を求めて共にわたしに尋ね求める。

--批判やゴシップはすべて捨てる。

--馴れ合いを克服すべく戦う。

--ゆるし、忘れる。--過去を捨てる。

--すべてのことでわたしに委ねる。

--鍵の力を呼ばわって、団結の邪魔となるものすべてを超越するのを助けてもらう。(ML #3362/GN 958:190-198, 136, 137, 139, 141)

「戦い続けよ!-確信対妥協、パート6」より

(イエス:)そうした違いゆえに、ホームを分けたり、別のホームに移動したりという過去に使われた手段は、不和の解決策ではない。もし不和が個人的な違いの問題であるか、その人たちが基準に従って生きるために助けを必要としているのなら、これはホーム内で解決されるべきだ。もし不和が、人々が全体的なコミットメントに欠けており、CMファミリーにいるべきでないという問題ならば、ホーム及びエリア・オフィサーによってシェパディングが与えられるべきだ。それによって関係者は、変わるための助けか、その人のライフスタイルにもっと合ったメンバーシップのレベルに移るための助けを得られるだろう。彼らから逃げるというのは大きな意味での妥協であって、それによって問題を解決しようとする現実逃避の時代はもう終わった。それは、内部の不和や分裂への答ではない。問題は、そこから逃げたり、カーペットの下に隠したりせずに、修繕され、手をかけられなければならない。

これもまた、より深い確信への呼びかけの一部であって、これは、何か間違っているもの、わが言葉に沿っていないものを見たなら、その問題を正し、物事を変えるために攻撃に出よとの呼びかけだ。別のホームに行ったり、相手を別のホームに送ったりするのは、不和解決の鍵ではない。繰り返す。それは鍵ではない。

(ママ:)私たち全員が御言葉の基準への従順を中心として団結するというのが全要点です。団結はそこから、つまり御言葉に生きることから来るのです。自分の思いで、何が正しいかを考え出して、それぞれが良いと思うことに従って何を許容するかを決めるというものではありません。御言葉が基準を定めるのです。「確信対妥協」シリーズやその他のGN、また憲章は、弟子となることへの主の呼びかけに基づいており、これらは全部御言葉です。(ML #3366/GN 969:55, 56, 60)

ゴシップ、批判、不和や疑いを広めること、恨みを抱くこと(を避ける)、・・・

「ゴシップをすぐにやめなさい!」より

(ダッド:)私は今、この場で、・・・ホームが抱えている最も深刻な問題の一つだと思っていることを指摘したい。それはゴシップが野放しにされているということだ! 要点はこれだ。このようなうわさの発信源と、ゴシップ網がなくならないなら、私自ら罪ある者にそれをやめさせる!

主のもっとも小さな子供でさえつまずかせるなら、その人達に対してイエスは何と言ったか知っているか? 主は、彼らが大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方がその人の益になる、と言われた! つまずきについて、イエス自身が言われた事を知っているか? あなたの片手や片足が罪を犯させるなら、切り捨てた方がいい!そして片目が罪を犯させるなら、それを抜き出してしまえ! かなり厳しい処置ではないか?

さてニュースがある! もしこれが止まらないなら、私はかなり極端な処置を施すつもりだ! ゴシップや陰口がなくならないなら、あなたを切り捨てる! 私は今までも決して腐ったリンゴに容赦しなかったし、これから容赦し始めるつもりもない!

これから誰でもゴシップを広めている者がいるなら、そしてゴシップによって兄弟間に不和と不一致と内輪もめの種を蒔くなら、ファミリーからそういう者を切り捨てるために、かなり断固とした措置を取るつもりだ! 愛する者達よ、それは神の忌み嫌われることだ。私はそれが大嫌いだ。だからファミリーの中ではそれを許さない!

私がこれ以上、このような汚れたコミュニケーションを見聞きするなら、あなたを切り捨てる。それまでだ! 私は、ゴシップを広めている人物のことばかりを言っているのではない。それに聞き入っている者達のことも言っているのだ! ゴシップは一人ではできない。話す人は自分の舌の主(ぬし)であるが、その相手も自分の耳の主である!

腐敗した話〔ゴシップ〕を言い広めて歩く者は誰もこのグループに属することはできない。それまでだ! また、そういう汚い挽歌に耳を貸す者も同罪だ! 山ほどのレターで私達は愛や団結について述べてきたし、あなた達は警告を十分受けた。でも、私達がファミリーの中に築き上げようとしている根本的な土台、すなわち愛と尊敬と信頼と団結と調和を、ゴシップは破壊しているのだということに気づかなかったのだろう! だから、私たちは、ファミリー内で意図的で愛のないゴシップをもはや許さない!

さて、これはこけおどしで言っているのではない! 私が少し厳しすぎると思うかもしれない。しかし今言っておくが、反抗と害悪について私が日和見的な態度を取っていたら、今の私達は存在しなかった。ゴシップをしたり、うわさ話をする者がいれば、その人は互いに愛し合いなさいというもっとも大いなる命令に公然と背くことになる! 醜いゴシップの罪を犯しているなら、神の愛の律法に反抗しているということだ! 愛の内に生きるという、主のもっとも大いなる律法に背くことになる。

この罪を犯しながら悔い改めもせず、悔い改めの実を示さない者達は、やっかい払いをする。そういうあなたがたはここでは必要ない! この類の態度を続ける者は誰でも、この宣教団には属さない! レターを無視して譲らず、せめて、この点について主や私やママやピーターが与えてきた愛情深いアドバイスやカウンセルに従おうと努めていないなら、このグループに所属することはできない。御言葉、私のレターを読め! 私は、ゴシップする者、陰口たたく者、殺し屋になれと教えたか?

あなたが罪を犯している一人なら、気をつけた方がいい! 愛の憲章を取り出し、愛のファミリーのメンバーとしての責任をしっかりと読み返しなさい。あなたは兄弟を愛するよう努めているか? 悪魔が邪悪な策略をもってあなたを誘惑し、でしゃばりなゴシップする者となるよう誘惑する時、悪魔に立ち向かっているだろうか?愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、信仰、柔和、自制という聖霊の実を示しているだろうか? 他の人達にとって、イエスの愛の見本となるように努めているだろうか? 愛の歩みを常に実践するよう、最善を尽くしているだろうか?

「主イエス・キリストを身につけ」、主が私達に望んでおられるような、キリストのように愛情深い人にしていただくよう、努めているか?愛する者達よ、兄弟についてひどいゴシップを広める事は、愛の実践にはならない。電話を取って、他の人の悪口を言い、あなたの舌のしゃべるに任せていることは、愛の実践にならないし、キリストのような人になることでもない。自分達の間で腐ったコミュニケーションを続けることは愛の実践にならない。

みんな、愛が兄弟を傷つけることはない! 愛は、ゴシップしたり、プライバシーを言い広めるなんて事はしない。陰口をたたき、うわさを広めるなんて事はしない! それは愛の律法に沿っていない! だから、そこにちゃんと書いてある。愛の憲章を読めば、あなたが現在行われている悪意に満ちたゴシップをしている一人なら、「身体的、霊的、感情的に他の人を傷つける」(各メンバーの責任、E項とR項参照)ことによって「他のファミリー・メンバーと愛と調和に満ちた人間関係を持つ事」という憲章のルールを破っているとわかるだろう。そうであれば、憲章メンバーとして自分の責任を果たしていないことで憲章メンバーとしての資格の有無を問われるかもしれない!(ML #3187/GN 792:41, 51-53, 60, 62-63, 66‚ 68–69, 71)

「罪を具体化する」より

(イエス:)ゴシップには多くの側面があるが、一つ確実なことがある。ゴシップはどの面をとっても悪である。ゴシップを正当化する言い訳など一つもない。ゴシップには良い所など一つもない。ゴシップのどの側面もわたしからのものではない。

わたしは、ゴシップのどんな小さなかけらも容赦しない。この油断のならない道を行き始める者は、ただそこにむなしさと苦痛と最終的な破滅のみを見いだすだろう。それがゴシップの目的だからだ。悪魔とその地獄の悪鬼どもがゴシップをさせる理由は、べらべらとよくしゃべるあなたたちを破滅に導き、他の者も道連れにさせようとすることである。

ゴシップがどのようなものかを明快に述べよう。あなたたちが事の重要性に気づくように。

ゴシップは神を否定する行為。

ゴシップは批判と同類。

ゴシップは悪口、侮辱、中傷。

ゴシップはサタンのプロパンガンダを

  広めている。

ゴシップは汚らわしい。

ゴシップは背信行為。

ゴシップは悪徳であり悪意に満ちている。

ゴシップは傷つけ、苦痛を広める。

ゴシップは破滅をもたらすためのもの。

ゴシップは愛の欠如以上のもの。憎悪の声である。

ゴシップはつまずきの石。

  敵のお気に入りの武器の一つ。

ゴシップは不和を促進するために作られた。

ゴシップは破滅への道に弾みをつけさせる。

ゴシップはわたしの愛の律法に対する直接攻撃。

ゴシップはサタンに自分の舌を支配させること。

ゴシップは手に負えない悪。

ゴシップは死に至らせる毒薬。

ゴシップは人を殺す。

ゴシップは地獄の穴から直接来た。

自分が絶対ゴシップしていないことを確かめたいなら、それに対するセーフガードがほしいなら、この基本的な経験則に従いなさい。何であれ、他人のことに関する意見があるなら、その人のいない所、面と向かっては言わないようなことは一言も言わないこと。そうすれば、自分はゴシップを広めていないと確信することができる。(ML #3453/GN 1038:31-35)

「分裂の危険!-確信対妥協、パート2」より

(ママ:)分裂、陰口、ゴシップ、憎しみの内に暮らすことは間違っています! それは御言葉に反しており、愛の律法に反しており、憲章に反しています。

今でもファミリーには分裂が存在しています。今まではその問題を一様に不和と呼んでいましたが、ありのままの呼び方をしましょう。それは分裂です。多くの場所において、ファミリーは分裂しています!

この問題を根こそぎにして団結を取り戻さないと、主のための私たちの仕事は滅びてしまいます。市全体や、さらには国全体が苦い根や憎しみで分裂させられているのは、とても悲しく、非常に哀れです。分裂は世界中にはびこっており、私たちは常にそれを耳にします。どの大陸からもです! プロビジョン・コンタクトや、証しやロード・トリップのエリア、若い人たちや子供たちのしつけの基準、どうすれば人生において神を敬わない影響を最低限に留められるか、ゴシップや批判の氾濫、他の羊やアクティブ・メンバーをどうシェパディングするかについての競争、性格上の衝突や不一致の解決、世代間で尊重し合いコミュニケーションをはかることに取り組むこと、ホームのレベルにおいてシェパディングやコレクションを受けること、ホームを開いた人たちが自分たちで物事を取り仕切るのではなく、共同生活のチャーター・ホームとして生きること、賛成しない人や服従しない人を無理矢理去らせるのではなく、決断の権威を新しく入ったメンバーにも分け合うこと、ホーム間、ホーム内、世代間の分裂につながり得る、憲章と御言葉の基準と従順のレベルの差など、あなたちは、これらのことを協力し合って違いを解決できないのです。

あなたたちは皆、自分がこう感じるのももっともだ、自分は正しいと考えていることでしょう。そして、間違った事をしたのがあなたではないという意味では、その通りかもしれません! たぶん、誰かがあなたに間違った事をし、あなたは傷ついたのかもしれません。でも、苦い根に固執し、ゆるさないという点では、あなたが間違っています。どのようなたぐいであれ、不和や分裂に関わっている人たち、あなたたち全員が間違っています。分裂に少しでも関係ある人たち、否定的態度、苦い根、愛の欠如を心に抱いている人たちは、その詳細に関わらず、誰でも間違っています!

確かに、それぞれの状況には多くの面があって、あなたたちが分裂しているのには実際の理由があります。あなたは不当な扱いを受けたのかもしれないし、誰かが御言葉や愛の律法の霊に従わず、あなたは傷ついたのかもしれません。でも、喜んでゆるそうという気がないなら、あなたも間違っています。主とピーターと私は、分裂しているあなたたち全員に対して責任を問います。そして、「今」、変わらないなら、全員が主のさばきを刈り取ることでしょう! 「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイ6:14-15)

このような状態を続けていくわけにはいきません! 主がこれだけの事を言われ、団結がどれほど大切かをありとあらゆる角度から乞い求め、嘆願し、説明されたというのに、この罪を犯したあなたたちがまだ互いに身を低くしてゆるし合い、心のかたくなさであれ、苦い根であれ、プライドであれ、傷ついた感情など何であれ、自分の側のゆるしを求めていないなんて、あるまじきことです。御言葉に対するあなたの不従順が、あなた自身やあなたのホーム、家族、羊、仕事に害を与えているのがわからないなんて、いったいあなたはどうしたのでしょうか!?

どうやったら、文字通り何年も兄弟たちと分裂し、その当然の結果に苦しまないと考えうる所まで主への恐れを失ってしまうぐらい、霊的に鈍く、憤りや苦い根によってめくらになり得るのでしょうか?! 真実は、あなたは今、当然の結果に苦しんでいるのです! それがわかりませんか? あなたのホームがどうして当然そうあるべき天国的なやすらぎの場でないのかを不思議に思うなら、どうしてプロビジョンや資金調達を主が祝福しておられないのか、どうして若者たちがゴシップし、陰口を言い、生意気なのか、アクティブ・メンバーから望んでいるような定期的なサポートがどうしてないのか、あなたのホームやエリアの若者たちが幻滅してファミリーを去っているのはどうしてなのかと思うなら、言わせてもらいますが、あなたのホームやエリアに存在する分裂が、その理由の一つです!

主はそれについて怒っておられ、もうそれほど長く我慢はされないでしょう。あなたは行いを改める必要があります。さもないと、ファミリーにいるにはふさわしくありません。団結できないなら、教会に行く必要があります。教会ではほとんど例外なく、陰口やゴシップ、分裂を黙認し、さらにはそれを得意としています! あなたがしているのがそれなら、そこにいるべきです! ホームやエリアで分裂を長い間続かせたままにしておく程度の主への恐れしかないなら、神があなたを助けられますように!

分裂についてそれほどもたくさん耳にするのは、もううんざりです。「私のファミリー、私のファミリー、それが正しいことを私は知っている」はどうなったのでしょう!? また、「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」は?! あなたは主の弟子ですか? それなら神ゆえに、そのように行動しなさい!

分裂が敵からの恐ろしい攻撃で、あなたがそれをプライドや利己的さ、自己正義、苦い根によって許していることに気がつかないなら、あなたは破滅する運命にあります! 邪悪な悪魔はあなたを食い尽くすでしょう。誇張などしていません。主が与えられた警告のビジョンを読む時、あなたが衝撃を受けて悔い改めるよう、望んでいます。そうでないなら、あなたには望みがなく、私から放り出される前に出て行った方がいいでしょう!

あなたがこれによって気を害し、去るように脅されたとしても、私は気にしません。真理が見えず、神に対して正しくなり、ホームやエリアの分裂をあおり続けている恐ろしいプライドを追い払わないなら、あなたは去る必要があります! 出て行きなさい! いい厄介払いができるというものです! あなた個人のことではなく、私たちの魂と仕事の敵に対して、あなたの人生に根を下ろすのを許した恐ろしいプライドと苦い根のことです!

団結は聖句にかなった原則であって、ピーターと私は、分裂によって神の仕事が崩壊するのを黙って見ているつもりはありません。団結の極度の重要性は、最初から聖書とモーレターに記録されています! 弁解の余地はありません!

今からは、誰が何をしたのであれ、不和があるなら、罪を捨て、団結するまでは、全員が有罪となります。不和があるところにはプライドと愛の欠如があります。たとえあなたが「無実」でも、主に対して正しくなることを真剣に考えているなら、あなたは主との関係を正し、主に耳を傾け、謙遜になり、必死に祈って、団結を取り戻すための方法を見出すでしょう。(ML #3362/GN 958:39, 24-30, 32, 35-37, 182)

「どのように苦い根に気づき、それを取り除くか!」より 

(ピーター:)主は、このレターの始めのほうでこう言われました。「新しい日、新たなスタート、新しい人生を心から望む者達は、この〔過去を捨てることの〕ビジョンをつかむ。彼らはそれをしっかりと手に握る。これらのものをいさぎよく捨て、進み続ける。過去にこだわり続けたがる者、心の傷と自己憐憫(れんびん)の感情を抱き続ける者は、落伍していく。」 これほど危険なのです! これらのものを捨てたがらない人達もいます。彼らはそれにこだわり続けたいのです。ゆるしたがりません。傷を抱き続けたがり、ちょくちょくそれを口にします。今何かが起こるたびに、記憶が過去を持ち出すのです。・・・

あなた達は、ゆるし、忘れなければなりません。傷、憤り、苦い根は、克服されるべきものです。それらを背後に捨てなければなりません。そうせずに、傷ついた気持ちと自己憐憫(れんびん)を抱き続けると落伍していく、と主は言われているのですから。主は、これらの傷ついた感情にこだわるのは危険で、それはあなたを主の奉仕から引き出してしまう可能性があるということを、かなり明確に語っておられます。(ML #3170/Vol 24:21, 22)

「罪を具体化する」より

* あなたたちのじつに多くが、苦い根を手放そうとしなかった。今それがあなたたちに敗北をもたらそうとしている。あなた個人にも、ホームにも、また国全体にも。

* あなたたちは何年も前からの問題状況を絶えず持ち出し、今でも同じ人を非難し続けて、ゆるそうとしていない。あなたたちは、斧は埋めるが、柄は出しておいている。

* 過去のことや、あなたに対して行われた不当な行為とやらをしつこく持ち出し続ける。それは本当にはゆるしておらず、忘れていないことを示している。あなたはそれを取り除くために戦ってこなかった。

* あなたは霊ではなく肉の目で見ているので、相手のせいにする。主はあなたの人生でそれらのことをどのように使いたがっておられるのか、どうして主はそういったことが起きるのを許されたのかを主に尋ねていない。いつも相手を非難している。壊れたレコードのようだ。

* 自分の苦い根を、シェパードだけにではなく、誰に話しても構わないと思っている。シェパードに苦い根を話すならばともかく、相手構わず、自分の苦い根の汚水をぶちまけるのは間違っている。あなたの話は、一方に偏っている。あなたは、ゴシップと苦い根でもってその人たちを焼いている。

* あなたの側の苦い根の話を聞いた人たちは、しばしば、その苦い根を取り入れ、自分のものとする。それから、その人たちは、そのリーダーやその人の悪口を言い、批評し始める。あなたたちの苦い根はそうして他の人たちに広まる。子供にもだ。

(イエス:)ファミリー全体の団結は、ネガティブさと憤りと苦い根によってばらばらに分割されている。わたしの言葉によって置き換えられておらず、戒められていないネガティブさが憤りとなり、そしてその憤りが根こそぎにされずに、長年にわたる苦い根となった。あなたたちはその苦い根に肥料をやり、育て、不平の種を養い育てた。あなたは思いの中でそれを何度も再生し、自分が正しいと深く思いこんでいる。そして今では、多種多様な苦い根の塊が、あなたを重大な危険にさらしている。苦い根は憎しみと化し、憎しみはまさに悪魔の王国の中核を成すものだからである。

(ピーター:)主はそれを苦い根の根本と呼びました。それは根深いのです。根は至る所に伸び、あなたの霊的生活面のすべての面に影響を及ぼします。あなたたちは祈ってもらわなくてはなりません。それについて主に尋ねなくてはなりません。戦わなくてはなりません。あなたは自らを滅ぼしています。あなた自身の神のための有用性を破壊しています。他の人の神のための有用性も破壊しています。ファミリーをバラバラに壊しているのです。もうやめなくてはなりません!

(イエス:)わたしは、互いの団結からはずれているわが子を祝福できないし、するつもりもない。互いの悪口を言う者、故意に舌によって他人をけなし、その心をずたずたにする者、他の人に対する悪意や不満や苦い根を捨てない者は、心と霊においてわたしから立ち去っている。

同労の仲間、兄弟姉妹に対する苦い根と恨みを心に抱くことで、わたしの真の愛の律法から離れて行っているというのに、一体どうして、わたしの近くにおり、さらに近づくことができるだろうか? あなたたちは、すべての苦い根を捨て、自分に不当な扱いをしたと思う人たちをゆるし、自分が不当な扱いをした人たちにゆるしを請わなくてはならない。今はすべてを一掃する時だ。大いなる謙遜と悔い改めをもって、すべての過去をかなぐり捨て、新たに始める時である。喜んで大いに謙虚になろうとするなら、わたしはあなたたちの心を溶け合わせ、団結を取り戻させ、あなたたちのフィールドにはびこった苦い根を取り除くことができる。

(ピーター:)自分が隠れた苦い根を持っているかどうかを主に尋ねなさい。お願いですから、清めを受けて下さい。苦い根はあなたを滅ぼしかけています。あなたの霊を滅ぼしています。苦い根は、あなたの心と霊を主から立ち去らせています。それが主にとってどれだけつらいことか考えて下さい。あなたたちは主の愛する花嫁だというのに、心や霊の内に主から離れさせる原因となるものを、人生に持っています。本当に悲しいことです。(ML #3453/GN 1038:27-30)

ダッドやマリア、ピーター、御言葉、リーダーシップ、ファミリーについて否定的に語ることを避ける。

「2003年、憲章の修正事項」より

チャーター・メンバーは以下の場合、破門される:

G.ダッドやマリア、また御言葉やファミリーについて、不和や分裂を生み出すような破壊的態度で、常時、疑い、批判、懐疑的な主張を口にする場合。ただし、説明やカウンセルを求める目的であったり、異議を唱えるための、正当な批評や質問は認められる。それらは直接、あるいは書面において、適切なオーバー・シェパードやホーム・オフィサー、またはそれよりもランクの高いオフィサーに提出することができる。そのような批評は、説明やカウンセルを求めたり、異議を唱えることが目的でなされた場合のみ認められる。

時には質問や疑いさえ、誰かと話し合うことで解決すべき時があるのは理解できます。そういう状況になった場合、必要な答えや祈りをもらえるように、自分のシェパードに心の内を正直に気がねなく話せるように感じるべきです。それは正当な事で、口に出して話す必要があるのです。だから説明やカウンセルを求めるとか、理解するのが難しい事に対して異議を申し立てたい場合、自分の疑いや批判を適切なシェパードと話すことは全く問題ありません。皆さんが正しい態度で適した人に話しているなら。つまり皆さんの質問に答えて説明するのを助け、これらを通じて皆さんをシェパディングし、誤解を解く助けをするのが仕事の人に話すなら、何も間違った事ではありません。

けれども、適切なシェパードではないメンバーたちと話したり、そうしないように注意を受けた後でも、それを口に出し続けて疑いを広めたり、不和や分裂を起こすなら、これは受け入れられない行動であり、破門に値します。(GN1033「破門に値する違反、G、120pg」)

「信仰の危機!-続・疑いについて」より

さらに質問と疑いについての説明

(ママ:)あなたの心には、何か質問があるかもしれませんね。または、過去や自分のホームやファミリーの方針やWSのリーダーシップや新しいワイン、あるいはファミリーの失敗や問題のことが心に引っかかっているか、首をかしげているかもしれません。忠誠心を欠いたり、敵の嘘や疑いに屈服したりするのは望まないので、そのような考えをどう扱ったらいいのか困っているかもしれません。誰かにそのことを話すべきか、それとも一人で祈って、御言葉を探るべきか、それとも無視しようとしたり、忘れようとするべきか・・・。これについて話しましょう。そして、質問があるか、疑いの攻撃を受けていると思うなら、どうすべきかを明確にできるか見てみましょう。

覚えていると思いますが、「疑いについての預言!」というレターの最初のほうのパラグラフに、質問と疑いについてのカウンセルがありました。(ML#3041:1-23,GN670参照) そのレターには、何かの事柄で自分が判断しかねているか、不確かなだけで、答を知りたいと真剣に思っている場合は、質問は正当であると説明されています。その質問が適切な方法で対応され、正しい経路を通して答えを見つけたいと誠実に思うから質問しているのなら、質問を口にすることは何も悪くありません。「適切な方法で対応される」というのは、適切な人に話すということです。つまり、信仰にあって強く、答を知っているか見つけられそうな人です。信仰や御言葉に弱く、つまずきかねない人々に質問や疑いについて話すのは正しくありません。

今述べたレターに説明されている通り、誠実に純粋な動機から尋ねている正当な質問と、敵が、質問者を弱めたり、分裂を引き起こそうとする目的で持ち上げている懐疑的な質問は違います。主は、「質問と疑いの違い—霊を試す!」(ML#3041:18-23参照)と題された預言で、どうやってその違いを知るか、優れた助言をしてくれています。正当な質問をしている人はオープンで、理解することを求めると、預言で説明されています。彼らは答を受け入れ、信じたいと望みます。疑いが消え去ることを望んでいるのです。けれども正当でない質問をする人々は、すでに考えが決まっていて、答えを求めてもいません。それなのに質問を利用して、反抗や疑いのメッセージを説いたり、サタンの声を吹き込もうとします。

主は皆さんが質問するのに反対しておられません。必要な答を受け取ってほしいのです。そして主がそれらの答を下さる方法は、おもに御言葉を通してのようです。すでに出版されている御言葉か預言の言葉を通してです。主は、質問を主のもとに携えるよう指示しておられます。御言葉を探り調べ、そこに必要な答がないなら、預言を通して、天国から、自分に直接あてられた、主の素晴らしい答を下さいと主に求めよと。また他の人からの助言を求めたい場合には、信仰にあって強い人のところに行き、一緒に御言葉を探るか、祈りによって主の御前に行きましょう。

今までのところ、本質的に悪い質問はないということをはっきりさせましたね。自分にはひどい質問に思え、自分がかなり外れているようで、罪悪感を覚えても、適切な人に尋ねる限りは、質問するのは誤ったことではありません。けれども、もともと正当な質問だったものが、正しい対応をしなかったために疑いに発展する場合もあることを、知っておかねばなりません。自分あるいは誰か他の人からの質問が正当な質問か疑いかを判断したいなら、その質問の背景や状況、そして質問をしている本人を見なくてはいけません。それらが判断の基準です。他の人達からの質問やその霊が正当かどうかを判断するには、以下の質問を自分に問うてみて下さい。これは自分自身が質問を持っている時にも活用できます。

ポイント1:質問を受けているのは誰か? 質問のある人がいるなら、その人は、本当に答を持っていると心から感じる人に質問しているだろうか? 実際に真実を見つける助けになると思う人、つまりシェパードや年上の兄弟やしっかりした弟子や親に聞いているだろうか? それとも弱くて、その人自身も質問が沢山ありそうな人に聞いているのだろうか?

ポイント2:どうして質問しているのか?誠実に答を求め、必要としているから質問する人たちがいます。これは良いことです。けれども、イライラを発散させ、批判を広めたり、友だちや仲間たちの前で自分を大胆に見せるために、質問をする人達もいます。また、誠実に答を求めているのではなく、「はやりの」ことと思うからする人もいます。そういう人は単純に信仰によって物事を受け取り、従うのを望みません。質問したり、水をさしたり、反抗したり、賛否両論や、どうして何かがこの方法で行われて、別の方法で行われれるべきでないのかを討論したり、議論したりするのが「クール」だと思っているからです。

ポイント3:答を聞いた時にどうするか? また、質問が正当かどうかは、質問している人が答を聞いてどうするかによっても判断できます。オープンな心で信仰と感謝をもって答を受け入れ、真理をもって質問が答えられるのを良しとし、それからその質問は解決され、終わったものとするなら、これは、誠実な質問者からの正当な質問であるというしるしです。けれども真理を拒み、せっかく質問が答えられてもその真理を信じず、逆の道をたどり続け、質問を繰り返し口に出すのなら、誠実に答を探しているわけではありません。

同じ質問がしつこく何度も繰り返され、しかも答が繰り返し拒絶されるなら、それはもはや正当な質問ではなく、疑いとなってしまったということです。正当な質問と疑いの違いは、誰に質問しているかと、なぜ質問しているか、また質問者が答を聞いてどうするかに大きくかかっています。主はこのように言われました。

(イエス:)小さすぎる質問も大きすぎる質問もない。間違った質問もない。わたしはどんな質問もすべて答えるからだ。カギは適切な人に尋ねること、答を受け取ったらそれを受け入れることだ。答を信じようと思うこと、それがカギだ。それこそ、正当な質問と疑いの第一のしるしであり、違いである。どんな質問も、飢えていて、熱心に答えを知りたいと思っており、答に対してオープンな心を持って、それを受け入れるなら、質問を答に取って代わらせるならぱ、正当な質問であり得る。答に対する誠実に飢えていて、受け取った答をオープンな心で信仰を持って受け入れるなら、それこそ正当な質問と言えるだろう。

しかし、何度も何度も質問をし、紙に書かれたわが言葉か、わが生きた言葉、またはシェパードからの助言と知恵の言葉を受け入れるのを受け入れることも信じることもしないなら、質問はもはや正当ではない。答を受け取ることに対するオープンさと飢えを示さず、信仰に満ちた態度をとらなかったので、正当性を失ったのだ。

敵が頭に疑いを吹き込んだとしても、質問は正当なものとなることがある。それによってかえって、わが言葉に行き、真理と答をわが言葉に探すようになる場合、あるいは、わたしにすがり、わが言葉で語ってもらい、答を下さいと祈り求めるようになる場合、あるいは、シェパードの所に行き、助言と祈りを求め、答を受け取ろうとして質問するようになる場合だ。だから質問することを恐れるな。しかし、賢く、祈り深くあって、必ず適切な人に聞くこと。そして、答に対してオープンな心でいられるよう必死に努めなさい。

(ママ:)ですから、質問をするのは大切です! 真理を見つけたいという動機から質問し、真理に対してオープンであれば、主はあなたを祝福して下さるでしょう。けれども、他の人を弱めたり、つまずかせたり、分裂を引き起こしたりすることが動機だったり、真理を誠実に求めて質問しているのではなく、すでに考えが決まっていて、ただ否定的でひねくれていて、害を及ぼすような考えを口に出す口実に使っているのなら、主は祝福されません!(ML #3088/GN713. 23:24–26, 39-48)

「問題と解決策!-パート3」より

(ママ:)もし疑いや疑問の戦いがあっても、罪悪感を抱く必要はありませんし、自分の考えや疑問、心配などを全部抑制しようとすることもありません。どうぞカウンセルを求めて下さい。どう感じているかや、気づいたこと、経験したこと、そして改善するには何をすればいいと思うかなどを話して下さい! ただし、どうか適切な人に話して下さい! 同じような戦いを持っているかもしれない、哀れな兄弟や姉妹に向かって戦いや疑いをドッと吐き出すようなことはしないで下さい。そのようなことをすると必要とする答えが得れらないばかりか、その人に耐え難い重荷を背負わせてしまうことにもなりかねません。シェパード、VSもしくはCROに話をするか、ピーターと私に手紙を書いて下さい! 私達には、ファミリーが直面している問題についての率直な意見交換が必要です。それによって協力し合い、解決策を見つけたり物事を改善する事ができるのです。ですからどうぞコミュニケーションを取って下さい。皆さんが必要です!

ところで、言っておきたいことがあります。フィールド・ホームの現状を真に理解しているのは自分だけとか、問題に取り組む重荷を持っているのは自分だけだと感じているような人が、DO、TRFサポーター、元メンバーの中にいると耳にしました。そういった人達の中には、次々にいろいろなホームやいろいろな人達の所に行って、資金難のような現在ある問題から脱却するための変革案を触れ回りながら、「WSは問題を取り上げたり改善したりするための手段を何も講じていない」と暗にほのめかしている人たちがいます。

残念なことに、このような人は時には問題を正確に把握することはできるものの、その解決策や意見は、必ずしも御言葉に基づいたものとは限りません。自分自身の力や、この世のやり方、サウルのやり方に頼っていることがしばしばで、彼らは、なるべく多くの人を自分の方に引き込もうとしているのです。

今私がこうして話しているたぐいの人々は、ふつう新しいワインを嫌い、ファミリーの現在の方向性が気に入らず、ピーターや私やWSに同意していません。そして、私達がすることは何もかもすべて間違っているけれど、どういうわけか自分だけは全ての答えを持っていると思い込んでいるようです! 彼らはいろいろな所に行って自分達の否定的なメッセージを広め、ピーターや私やWS、また新しいワインや主がファミリーに行っていることに反したことを言いふらしています。

問題や、改善の必要性を認識して、役に立つ批評や意見を提供する事と、敵の嘘や疑いを聞いてそれを盛んに言い広めることとの間には大きな相違がある事を肝に銘(めい)じておいて下さい! このシリーズで何回も言ったように、悪魔は、あなたがたに御言葉か、御言葉を出す者、つまり私とピーターを疑わせようと試みているのです。だからもし、あなたでも誰か他の人でも、ファミリーの問題や失敗点を見て、何か言いたいことがあるのなら、それも結構です。私達はその話を聞きたいです! でも、どうか必ず自分が建設的で肯定的であり、信仰に満ちた態度でいるように注意し、祈り深くなって下さい。自分の心と動機を量り、自分の霊は団結の霊かどうか、主と、主がレターで与えられた方向にしっかり従っているどうか検討して下さい。そうしないと、知らず知らずのうちに、敵の嘘に耳を貸し、さらに不注意にもそれを言い広めていることになるかもしれません。そして、それこそ敵の思うつぼです!(ML #3071/GN701. 23:14-18)

2. すべてを捨てること、信仰によって共同生活をすること、ファイナンスや所有物に関する使徒行伝2章44-45節の原則という、イエスの教えを実践する。主の供給の力への信仰を現す。主が与えられた物を良く管理する。物惜しみをしない。

霊と行いにおいて「確信対妥協」シリーズに生きる。それは、十分大きなホームで共同生活をすることを意味し、自分達が他と異なることを明らかに示し、イエスの弟子のように生きるということ。

「分裂の危険!-確信対妥協、パート2」より

(ママ:)今では、家族どうしは一緒に住みたがりません。一家族だけのホームがますます増えており、それは宣教師の拠点として効果的でないばかりか、主が共同生活に望んでおられるテスティモニーでもありません。ファミリー・ホームはかつて、非凡な存在でした。幸せな顔と、愛情深い協調、様々な人生を歩んできた人々が愛の内にすべてを分け合いつつ、共に共同生活をしているのです。その見本は私たちをニュースに乗せました! 実際にうまくいった共同生活、それは奇跡でした! それは、「信者たちは皆一緒にいて、いっさいの者を共有にし」という御言葉の証明でした。私たちは共同生活を、現代の弟子としての、また神の愛が存在することの、最も強力な見本として使ったのです。

でも、一つの家族だけで暮らし、子供を体制の学校に送り、少しばかり証しをし、その他の時間を全部生き残るために費やすことの、どこが興味深いのですか? 教えてあげましょうか? どこも、面白くありません! 世俗の、他の何百万というクリスチャンの多くと、ほとんど全然違いません。他の誰かと一緒に住むことに我慢できないか、あなたの悪い態度のせいで相手があなたと一緒に暮らすのに我慢できないこと、子供の育て方について同意できず、ファイナンスについて同意できないのが理由で自分たちだけで暮らしていることがあなたの害になっていないと、本当に思っているのですか? ほら、目を覚ましなさい! それはあなたのテスティモニーを台無しにしています! そして主はそのせいで、祝福と供給と保護の手を取り払っておられます。この警告の後で分裂を続けているなら、あなた個人にも、あなたの仕事にも、さらに大きな害を及ぼすことでしょう!(ML #3362/GN 958:43–44)

「分離せよ!-確信対妥協、パート3」より

(ママ:)ファミリーのための主の経済プランは、常に使徒行伝2:44-45でした。それに生きていないなら、あなたの人生やホームにどんなチェンジが必要であるかについて祈るよう、強く勧めます。また、あなたたちが一家族だけのホームで、使徒行伝2:44-45に生きることなど到底できないならなおさらのことで、あなたたちは疑いなく、もっと大きな経済的プレッシャーに陥るでしょう。共同生活をし、経費や、車、電化製品、コンピューターなどの所有物を分け合っている場合にのみ、それがもっと経済的であるばかりか、主の計画に従順であることによって主があなたをもっと祝福できるというのが、論理にかなうのです。でも、それはすべて、つまるところ、あなたがどれだけ分け合いたいか、どれだけ非利己的に生きたいかです。(ML #3363/GN 959:175)

「あなたのお金はどこにあるのか、パート3」より

(イエス:)共同生活や使徒行伝2:44,45の生き方から遠く離れてしまう事、これはダビデの子供たちが妥協し冷めてしまったという最大の兆候の一つだ。それは、利己心と世俗的な心がますますあなたがたの中に忍び込んだ事を示している。しかも、入り込んだだけでなく、移り住んで領土権を主張している。これは、わたしにではなく体制に近くなった事の実だ。神の子供、愛の家族として、元々持っていた良い点の一つを捨ててしまった。最大のテスティモニーではないとしても、素晴らしいテスティモニーの一つであったわたしに対するあなたがたの献身、真の弟子の生き方は、今、背後に消え、利己心、分裂、深刻な愛の欠如の犠牲となった。

他の人と一緒に住み、いっさいの物を共有にし、必要を抱えた人に与えるには、神の超自然的な純粋な愛が必要だ。それが理由で、わたしはこの生き方をファミリーに取り戻させる。時がますます悪くなり、人々の心が冷えていくにつれ、そのような生きた証拠の実例がますます必要になるからだ。 

終末になると、あなたがたは愛を忌み嫌う者や神と争う者、わたしのメッセージを止めるために力の限りを尽くす者たちに囲まれるだろう。しかしあなたがたの団結と愛と共有している幸せが強いなら、彼らはそのテスティモニーを絶対に壊せない。「百聞は一見にしかず」のテスティモニーであり、「説教ではなく見本」であり、「私たちはこれがうまくゆくことの生きた証拠」のテスティモニーなのだ。

人々はますます目で見ないと気がすまなくなる。何らかの「証拠」を見ないと信じなくなる。だから、こうやって基礎に戻るよう求めているのは、あなたがたの都合や経済的安定のためだけでなく、頭が混乱し、信じたいが、「信じます。不信心な私を助けて下さい」と言う者たちのためでもある。あなたがたは見本や愛や団結によって、彼らの不信仰を乗り越えさせてあげるのだ。

共同生活をし、全てを共有し、共に生活するために全てを捨てる事は、初代教会の経済体制の基盤だったし、あなたがたにとってもうまくいく。わたしはこの生活様式を使って、あなたがたの経済的重荷をかなり軽くする。これは理にかなっており、賢明な試みであり、絶対に犠牲を払う価値がある。いっさいを共有にし、誰も持ちすぎず足りなくもない幸せな共同体に回帰するなら、経済は奇跡的に何倍にもなり、あなたがたのコインは決してさびない神の良き金貨に変わるだろう。あなたは何にも不足しないだろう。

しかし、これには両面がある。わたしはすべての面でわが子らの必要が満たされるようにするためだけに共同生活を使いたいだけでなく、わたしやわたしの初期の弟子たちの生き方の実例も復活させたい。わたしは、わたしがどのように愛する者たちと共に兄弟愛を分かち合って生きたかを、この世に思い起こさせたい。わたしはあなたがたに、もう一度、「イエスとその弟子たちが暮らしていたように暮らしている」と言えるようになってほしい。というのも容易に信じない者たちにとって、これは最も興味深く奇跡的なテスティモニーの一つだからだ。 あなたがそう言える時、彼らは常にあちこちを行き巡り、福音を宣べ伝え、病人をいやし、しいたげられた人を助け、いっさいの物を共有にし、信仰によって生き、愛の見本となり、神に全てを捧げた人たちの事を思うだろう。わたしは一番初めの頃から、ファミリーはそのように暮らすべきだとダビデに示した。そしてあなたがたはそのように暮らしたし、今もあなたがたの多くはそう暮らしている。そして、わたしは、あなたがた全員がそう生きるよう願っている。このテスティモニーがあれば、わたしは名前以上のもの、預言者以上のものとなり、わたしの弟子たちは有名な本の登場人物以上のものとなる。

わたしの真実がこのような奇跡的な方法で、あなたがたの内に生きた証拠となれば、わたしは全ての人をわたしに引き寄せるだろう。それゆえ、わたしは約束する。あなたがたが払う犠牲以上に祝福すると。そして、あなたがたの共同生活を、さらに祝福されたもの、より栄え、幸福なものとする。手を伸ばし、必要なステップを踏み、信じ、これに関してわたしが言った言葉を果たすようわたしに要求するなら、あなたは後悔しないだろう。そしてこれは、あなたがたがこれから獲得する経済的成功と拡大の最大の鍵の一つとなる。

確かに共同生活の障害は多いが、わたしをのっぴきならない立場に置き、約束を果たすようわたしに要求するなら、わたしは供給できるし、供給する。わたしは、あなたがたが共同生活する事がわたしの最大の望みであると言ったのだから、あなたに必要な住居環境をわたしが供給するという完全なる信仰と信頼を持って良い。国によっては大きな家は高いか、見つける事が不可能に近いか、あるいはその両方だが、わたしは状況や物質的限界に制限されていない。わたしが導く所ではわたしは供給する。あなたがたに何かするよう求める時、わたしはいつもあなたがたの必要を満たしてきた。安くて十分大きな家であれ、高い家賃を払うためのお金であれ。あなたがたが共同生活をするのを邪魔する障害物が何であれ、それが経済的なものであれその他のものであれ、わたしの意思を行うための従順のステップを踏むなら、わたしは必ず扉を開く。

より経済的であり、才能や供給物を共有できるという論理的長所によって共同生活に移行するだけであっても、それでもわたしはあなたの期待以上に祝福する。わたしはこの世にこの見本を取り戻そうと必死だからだ。これはあなたがたの将来と宣教活動の成功に絶対必要だ。これはあなたがたの生き残りにかかわる。だからわたしは、皆が十分なだけ持っている「多すぎない国」の素晴らしい方法にあなたが戻るなら、何があろうとも祝福するだろう。そして、あなたがたはこの世に対するわたしの顔となる。(ML #3464c/GN 1049:386-394)

「前進あるのみ」より

(ピーターがサミット参加者に:)生きた共同生活のキリスト教の手本以外にも、ファミリー内でホームがそれほども重要な役割を果たしている理由があります。ホームというのは、弟子が住んでいる場所です。そこは弟子が育ち、試みられ、磨かれる場所です。他の弟子と共に暮らすことは、弟子の資質が育まれ、育つ環境を提供します。ファミリーのホームは、フェローシップ、共通の目的、世俗からの霊の避け所を提供します。ホームとは、主に仕えることに身を捧げている人たちが、同じ考えを持つ他の人たちと共に暮らし、働くことのできる場所です。一つのホームで共に暮らすことにより、各人が結束し合い、それによって、個々の人が一人だけでやるよりも、主から定められたゴールをはるかに効果的に達成できるようになります。

ファミリーのホームに住むことなしには、たいていの場合、個人の弟子の資質は弱まります。他の弟子と共に暮らすことによって蓄積された霊の強さは、その人の弟子としての資質に欠かせない要素を供給します。この世の大部分のクリスチャンと私たちを分かつものは、共同生活のファミリー・ホームです。それがファミリーを独自のものにしています。そこでファミリーの弟子の資質が力強く成長するのです。そしてそれは、弟子の人生を送るうえで不可欠な部分です。

ホームは、主が明確にした弟子の生き方をするのを助けるために、それを支援する環境と、他の人たちとのフェローシップの両方を供給します。フルタイムの100%の弟子とは、全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えることを意味します。(マルコ16:15) また、信者たちと共にいて、いっさいの物を共有にすることです。(使徒行伝2:44-45) 自分を捨て、日々十字架を負って主に従うこと(ルカ9:23,24)、自分の財産をことごとく捨て切り(ルカ14:33)、彼らの間から出て行き、彼らと分離し、汚れたものに触れず(2コリ6:17)、神とマモンの二人の主人に兼ね仕えず(マタイ6:24)、兄弟のために命を捨て(1ヨハネ3:16)、神がいっさいの必要を供給されると信じ(ピリピ4:19)、わたしの言葉のうちにとどまり(ヨハネ8:31,32)多くの実を結んでいることで天の父に栄光を捧げ(ヨハネ15:8)、互いへの愛によって自分が弟子であることを示す(ヨハネ13:35)ことを意味します。

一個人が自分だけで真の弟子として生きるのは非常に困難です。おそらくそれが理由で、主は初代教会の時代から共同生活を推し進められたのでしょう。主は、弟子の基準に沿って生きるのがどれほど困難になるかをご存じでした。そして、その知恵により、私たちには互いの助けが必要になると知っておられたのです。主は一番初めの弟子たちに、網や税率表、仕事、家族を捨ててついて来るように言われました。彼らが毎晩漁を続け、毎日税金を集め続けていたなら、初めの弟子たちはどれほど成功していたでしょうか? 最後まで従ったでしょうか? 世界中にキリスト教を広めたでしょうか? おそらく違ったでしょう。

彼らは、夜も昼もイエスと共にいなければなりませんでした。互いにとって励みとなり、状況が困難になった時には、進み続けるよう助けなくてはなりませんでした。イエスが十字架にかかり埋葬された後、彼らは一つの部屋で共にいなければなりませんでした。互いの信仰を強め合うためです。そして、ペンテコステの日以来、「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」のです。(使徒行伝2:44-45) 彼らは、弟子の人生を生きることができるよう、共に暮らし、働き、分け合わなければなりませんでした。

どうして主は初代教会を造られた時、弟子たちが共に暮らすようにしたのでしょう? おそらく、人間性というものを知っていたからでしょう。助け、励まし、そして他人からの促しが多少ないなら、人の弟子の資質がゆっくりと下降するのは、いともたやすいものです。「ふたりはひとりにまさる。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。」(伝4:9,10) 私たちの共同生活のホームは、生きたキリスト教の見本をこの世に示しますが、ホームというものは、それと同時に、個々の弟子に強さとセーフガードを提供します。私たちは共に暮らしており、互いの見本を見ます。誰かが下降しつつあるか、疑っているか、信仰を失いつつある時には、それを感じ取り、その人を助けることができるのです。私たちは互いに対するセーフガードなのです。

ホームとは実際、ホームの全メンバーで構成されるチームです。ホームのメンバーが共に暮らし、共に働き、共に従い、互いに気をつけ合っている時、彼らは勝利チームとなります。全メンバーが勝利という同じゴールを目指して努力する、真に一団となったチームは、強くなります。彼らは勝者となります。主が私たちをホームに置かれるのは、一個人としては主の弟子の基準に完全に沿って生きるのは極めて難しいものの、一つのチームとして団結して共になり、互いを支え合うなら、はるかにたやすいのを知っておられるからです。そういうわけで、ホームが果たす役割は、弟子の人生を送る上で欠かせないものになるのです。(以上、ピーターがサミット参加者に書いた資料)

(ピーター:)勝利チームになるには、ホームは役目を果たせるだけ十分大きくなければなりません。忠実に証しし、魂を獲得し、アクティベーテッドを出し、フォローアップし、新しい信者を教え訓練し、子供を世話し、教育し、若者の必要を満たし、永続する活動を築き、フルタイムの弟子の見本になることに関して主が言われた様々なことを考慮するなら、その仕事をするための人員を持ち合わせている調和の取れたチームが必要なのは明らかです。一般的に、現在最も成功しているホームとは、実り豊かなホームになるために要求されている様々なことをする十分な人員を手元に持ち合わせている人たちです。つまり、だいたい8人から12人、さらにはそれ以上の大人がいるホームです。そうすれば、成功しているホームが常に手がけるべき任務をすべて果たすための人員が十分にいることになります。(ML #3479/GN 1067:70-76, 111)

信仰と主の供給によって生活する。「神という要素」に頼る。必要を豊かに供給するという主の力への信仰を現す。

「分離せよ!-確信対妥協、パート3」より

(ママ:)あなたが信仰によって生き、主の仕事に時間を投資している弟子なら、神と、あなたが養っている人たちにサポートしてもらうことを期待できると、神ははっきりと言われました!

もし私たちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。(1コリ9:11,14)

私の神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。(ピリピ4:19)

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ6:33)

施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。(箴言11:24-25)

富んでいると偽って、何も持たない者がいる、貧しいと偽って、多くの富を持つ者がいる。(箴言13:7)

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。(ルカ6:38)

貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる。(箴言19:17)

あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。(伝道11:1)

わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。(2コリ9:6)

イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。(マルコ10:29-30)

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。(マタイ10:9–10)

そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。(ルカ22:35)

(ママ:)これらは、聖書からの主の約束と指示です。ダッドは最初から、私たちが主とその仕事に忠実なら主は供給されると教えられました! ここにあるのは、ダッドのレターにある数多くのクオートからです。

神の忠実さゆえに神をほめよ! 神にはただ働き人が必要なだけだ。そして、神は残りをすべてされる! ルターの妻が、自分たちの家にあまりにも多くの人が住みすぎると不平を言った時に(約25人ぐらい。私たちに比べると多くないが、非常に小さなコロニーサイズだ!)、ルターが語ったように。「心配しなくてもよい! 一人分増えるたびに、神は供給して下さる!」 もちろん、神はいつもそうして下さる。神の名をほめよ! 神はその栄光の富の中から、私たちの必要を一切、供給して下さる。私たちが忠実に神に仕えている限り、私たちに何が必要か、何人そこにいるのか、どこにいるのか、私たちが誰なのかは関係ない! 主をほめよ!(ML #112:1)

体制にはどっさりあって、しかもそれを分かち合えるというのに、どうして私たちはモノのためにあくせく働いて無駄に過ごさなければならないのか! 体制に仕えてもらおう。私たちが彼らに仕えるのではなくて! 体制にしてもらえるというに、どうして生計を立てることに思いわずらって、種を詰まらせなくてはならないのか? 神はいつも、その目的にふさわしい場合に体制が神のしもべに仕えるようにさせる。「世(または体制)と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。」(1コリ7:31)(ML #27:19,20)

神を信頼し、従うことによって自分を証明するなら、神はあふれんばかりの祝福を注ぎ込まれると約束された。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくしてくれるだろう!」「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう!」と言われる。あなたを養うために天からお金を落とさなくてはならないとしても、あなたが神に従い、メッセージを、御言葉を出すなら、神はそうされるだろう。

神が導かれるところでは、供給される! 一切の必要を神は供給される! 神はあなたを養われ、守り、服を与えるのであり、たとえ何が起こっても世話をされる! 神にはそれが可能なだけでなく、そうしたいのである! 私たちが受けるべきものを、喜んで与えたいのだ! 神の供給には限界はない。給料よりもずっと良い。そして、神はまさにあなたに何が必要かご存じである!(ML #692:28)

(ママ:)中には無意識の内に、私たちがこれらの節をそのまま当てはめ、全く信仰によって生きていたファミリーの初期の頃から時代は変わったと感じている人もいると思います。幾つかの国々では強い反セクトのプロパガンダがあるのはわかるし、多くの国において一般的に人の心はますます冷たくなっているのも知っています。それは自然と、信仰によって生きることをもっと難しくします。そこで、現在、ファミリーに対して、完全に信仰によって生きることを期待できるのかどうかについて、私たちの夫に尋ねてみました。

(イエス:)わが言葉はきのうも、今日も、永遠に真実である。福音を宣べ伝える者は、福音によって生きるべきである。サタンはいつも悪事を働き、わが子どもたちに現在はそうすることができないとか、人の心が冷たくなり、悪人と詐欺師とは悪から悪へと落ちていく今の時代では、確かに信仰によって生きることは求められていないとか、この新しい時代には必ず別の方法があると納得させようとしている。わが子らよ、あなたがたに告げるが、過去の年月よりも、この時代に信仰によって生きることはもっと必須のことなのだ。

わたしはあなたがたにこの計画を与えた。完全にわたしに信頼するという計画、わたしの内に、わたしだけへの信仰によって生きる計画である。わたしはこれこそが、人の心がかたくなになる今からの荒れた時代で生き残る唯一の方法だと知っているからだ。わが供給の力学は、あなたが普通の考え方や肉的な考え方で感じることとは逆である。イスラエルの民が砂漠でさまよっていた時に供給したように、わたしは現在の世界にいるあなたがたに供給することができる。しかも、大いに供給できる!

その通り。人の心はますます冷たく、冷淡になっているが、恐れたり、状況を見たりしないようにあなたに求める。パロの心も、わが子らに対してかたくなにならなかったか? しかしながら、わたしは彼らの一切の必要、食事や服の必要だけでなく、パロの手からの保護と解放の必要を供給するのを怠らなかった。

わが約束は今でも真実である! 福音を宣べ伝える者は、福音によって生きるべきである。信仰によって生きることは、現在でも可能である。そして、一歩踏み出して従うなら、またあなたがわたしをテストにかけるなら、豊かな供給の実を刈り取るようになるだろう。わたしは、数の多い少ないには制限されない。

人の心は冷たくなっているものの、義に飢え渇く者たちの心はますます必死になっていることを覚えていなくてはならない。悪人がますます悪に染まっていくにつれ、わが言葉を宣べ伝えることの必要性はどんどん大きくなっていく。わが羊はわが声に聞き従う。そして、見知らぬ者にはついて行かない。そしてわたしはこの者たちを、わが花嫁であるあなたの必要を供給するのために使う。

今は奇跡の日である。そして、わが奇跡的な供給が知られるようになるだろう。あなたが従うなら、地の良きものを刈り取るようになる。わたしを求めるなら、また人生に「わたしにすべてを尋ねる」手段を適用するなら、信仰によって生き、わたしだけに頼るなら、わたしは各々の状況においてあなたを導き、あなた個人の状況に合わせた、従うべき計画を示すだろう。あなたがいる状況や場所、国で何がうまくいくかを示すだろう。わたしはあなたがたの何人かを、より受容的なフィールドに移動するよう導くかもしれない。また、ある者たちには、新しいアウトリーチの手段やアプローチ、手を広げることのできる新しいエリアを示すだろう。またある者たちを、スポンサーや擁護者になってくれる、地位ある重要人物に導くだろう。供給と保護の両方を提供する手段を持つ、キングやクイーン、男性や女性にである。

わが約束は今までと同じように、現在も真実である。あなたがいる特定の状況においてわたしを求めるなら、団結してわたしが告げることを行うなら、一歩一歩わたしにすべてを尋ねるなら、わたしはあらゆる状況における鍵、あらゆる問題における解決策を与えよう。わたしへの信仰によって生きることは、来るべき時代にあなたを保つ唯一のものである。体制に頼るのは、悲しみの始まりとなる。あなたが福音を宣べ伝え、わが仕事を行い、わたしに信頼と信仰を持つなら、わたしはあなたの一切の必要を供給するのを決して怠ることはないだろう。

わがすべての富は、あなたの意のままである。わたしのものはすべて、求めればあなたのものである。受け取り、受け取るために手を伸ばすなら、すべてあなたのものだ。信仰の手を伸ばし、信じなさい。わたしは決して失望させない!

(イエス:)ゴッド・ファクターとは、わが約束の上に立つことである。わたしに信頼し、わたしには何も不可能はないと信じることだ。わたしにはあなたのすべての必要を供給できるという意味だ。わたしへの信仰はすべての不可能をくつがえすという意味だ。

ゴッド・ファクターとは、わたしがあなたに宇宙の富を開き、あなたの前に供給の大いなる貯水池を置いたという意味であり、また、それは求めればあなたのものとなり、ただ手に取るだけという意味だ。ゴッド・ファクターとは、完全にわたしに信頼を置くなら、あなたは何一つ欠けることはないという意味だ。福音を宣べ伝えるなら福音に生きるという意味だ。あなたにとってすべてが可能だという意味だ。わたしに信頼し、わたしが告げることを行っているなら、たとえサポートを空から落とさなければならないとしても、わたしは必ずあなたをサポートするという意味だ。良い証しは常に割に合うという意味だ。そして、わたしに従っているなら、あなたの必要を世話するという意味だ。わたしがパンを約束したなら、石を与えたりしないという意味だ。

実際、それは、ファミリーがわたしに信頼するなら、わが約束を要求するなら、わたしがせよと言うことに従うなら、わたしは彼らのすべての必要を栄光の富の中から満たすということだ。外に出て「行った」をするなら、わたしは供給するということだ。

ゴッド・ファクターとは、肉の腕や人間のこの世の体制に信頼するより、わたしに信頼するということだ。ゴッド・ファクターとは、わが言葉と約束の上に立つということだ。

わが道はあなたがたの道とは異なる。わたしは人とは反対のやり方をする。わたしは当座(アクティベーテッドとフォローアップをパイオニアしている間)もファミリーに供給することができるし、そうする。わたしを制限するものは信仰の欠如のみである。わが供給は、不従順と、わたしが与えた約束を当てはめないことによってのみ妨害されている。

わが子供たちがわが意志を行っている間、わたしは彼らに供給できないと考えることは、はなはだしい誤解だ。アクティベートをプッシュすることが、当初の間、資金をもたらさないと考えるのは、真実ではない。わたしには、ファミリーが一歩一歩進むごとに供給することができないと思うのか? 不可能はないとわたしは言った。当座の間、わたしがわが子供たちに供給できないというのは真実ではない。わたしには可能ではないのか?

わたしは自分の者たちに供給すると約束した。花嫁たちがわたしのために働いている間、わたしはすべての必要を満たすことができるとは思わないのか? わたしが当座の間、供給できないと考えるとは、非常にばかばかしい! わたしは神ではないのか? 風や波はわたしの命令に従わないのか? わたしは命じると、王国全体がわが名に服従するのではないか?

ああ、信仰の弱い子供たちよ、あなたはいつまでも疑っているのか? いつまで飛躍せずにいるつもりか? 誰がやってみるのか? 誰が行くのか? 誰が思い切ってやってみるのか? わたしが導いている深みに、誰が乗り出すのか? 誰が喜んで自分の手をわたしの手の内に置き、わたしが光以上の者、知られた方法以上の者になると信頼するのか? 誰がわたしに喜んで命じるのか? 誰が喜んでわたしを証明しようとするのか? 誰が喜んでわたしの約束を受け取るのか? 供給の奇跡の天の窓を開くために、喜んで御国の鍵を呼び求めるのは誰か?

そうだ、それには信仰を要する。勇気を要する。大胆にわたしを信頼することを要する。あなたの信頼をすっかり、完全にわたしに置いて、わが言葉を要求し、わたしが奇跡を行い、あなたにできないことをすると期待する、「ゴッド・ファクター」を要する。疑う者が「いやいや、それはできない」と言う時に、ありうる結果を無視することを要する。それには、断固とした立場を取ることを要する。

わたしはずっと、供給することができるのではないか? わたし自身の者が、事欠いて、パンを乞い求めているべきだろうか? わたしは自分自身の者を見捨てるだろうか?

それが為され得ないなら、わたしはそれをあなたに求めはしなかっただろう。わたしは制限されていない。あなたはわたしが当座の間供給することができないと思うのか? それは、わたしには雨を止めることができないと言うぐらい馬鹿げている。ああ花嫁よ、なぜ、なぜ、なぜ、あなたはわたしを制限するのか? いつまで疑うのか? わたしをのっぴきならない立場に置き、わが約束を要求し、あなたの前で待っている収穫を刈り取るのを、いつまで後回しにするのか?

信仰を要することは知っているが、それでも、わたしはそれと同様に、あなたにその信仰も与えた。それには、わたしに、わたしだけにしっかりと目を留めることを要する。それには、彼らの間から出てきて、けがれたものに手を触れないことを要する。それには、わたしがせよと言ったことをすることを要する。それには、わたしが導いている所について来ることを要する。子供のような信仰を要する。静かな信頼を要する。わたしは約束したことは果たすと知ることから来る、単純な確信を要する。自分は従っており、わが意志を行っていると知っているゆえに、また、あなたの従順ゆえにわたしはあなたを失望させないゆえ、わたしが最後まであなたを見届けると信頼することを要する。

「ゴッド・ファクター」は、事態をすっかり変える。それは、あなたの成功するか失敗するかの違い、あなたが時期尚早に終わるか、生き残りの希望があるかの違いを意味する。わがメッセージを耳にするのを待っている魂の生か死かを意味する。わたしがあなたのために取っておいた祝福と約束を受け取るか、あるいは乞食、必要に事欠いた者として人生を生きるかの違いを意味する。(ML #3363/GN 959:54-57, 59-69, 152-164)

「貧困から豊かさへ」より

(ママ:)兄弟達よ、あなた達が貧困の内に生活する事を、主は喜んでおられません! あなた達は、主のためにすべき大仕事があるのです。そして主は、それをするのに必要なものをあなた達が手にすることを望んでおられます。全員が心地よく住めるような家に住むことや、子供達に必要なゲットアウトが出来る広場が敷地内か近くにあり、しかも人口の密集する地域の近くに住んでいて、あなた達やティーン達が十分な証しの機会を持てることを望んでおられます。主はあなた達が、ミニストリーのために必要な交通手段として、安全で頼りになるよい車やバンやバスを所有することも望んでおられるのです。

主は、あなた達が身体的に十分な世話をされ、必要な医療を受けることも望んでおられます。適切なめがねを作ったり、歯の治療を受け、ビタミンや健康的な食事を食べることで、主のための仕事をするのに強く健康でいれることを望んでおられるのです。一般の人達に対する良き手本やテスティモニーとなれるよう、きちんとした身なりをするために必要な物を手に入れられることも望んでおられます。また、あなた達のホームに十分な暖房や明かりがあって、主の御仕事をするために健康であり続けられることや、主の愛と世話のよい証しとなることを望んでおられます。主はあなた達の子供達にも、コンピューターや教科書、参考書、ウォークマンやギターその他、必要な機材を持ってほしいのです。それによって、彼らが主の御国の将来のリーダーとして、トップクラスの訓練を受けられるようにです。そして、あなた達がプロビジョン出来ない物を買うためのお金を手にすることを、主は望んでおられるのです。(ML #2929/Vol 21:8‚ 9)

「あなたのお金はどこにあるのか!-パート4」より

(イエス:)わたしはあなたの夫、恋人、救い主だ。わたしはあなたに必要な物を与えたくてたまらない。あなたが必要とする以上を。愛する人たち、わたしに求めなさい。そうすれば、わたしは、豊かに、あなたが望み願う以上に注ぎ出す。

あなたの信仰不足がわたしの与える量を制限してきた。信仰が足りない時、わが供給の能力を疑う時、つまり、わたしには与える物がないとかわたしが貧しい神だと思っているのではないが、自分はそれを受ける価値がないと感じるか、ぎりぎりの生活にあまりにも慣れてしまった場合、あなたは次第に求める信仰を失ってしまう。図々しいとか、法外な要求をしていると感じるのだ。だが、はっきり言っておくが、あなたの求めは、与えたいというわたしの意欲と願いの足元にもまだ及んでいない。

あなたが求めるなら、わたしは与えるというのが法則だ。わたしはこの法則を変える事はできない。時の始めから定められているからだ。あなたが身を低くし、必要を認め、従順になって求めれば、わたしは今までずっと与えたかった全ての物をあなたに与える事を深く喜ぶ。

わたしを喜ばせたいか? わたしに満足と喜びを与えたいか? それなら必要な物をわたしに求めなさい! あなたが求める時だけ、わたしは供給の奇跡を行える。

供給や奇跡、開かれた扉、予期せぬ寄付、遺産、贈り物、空からのお金の鍵など、あなたの特定の必要のために、何百という鍵が意のままに使える。

困窮し欠乏した生活をする事に弁解の余地はない。それは、ダビデの子供たちがこの世とお互いに示すようわたしが望んでいるテスティモニーではない。わたしの評判が危険にさらされているのであり、わたしは自分の言葉を守ると約束する。わたしは勤勉で信頼のおけるボスであって、あなたの請求書を喜んで支払い、ボーナスを与え、給料を上げ、あらゆる種類の保険を供給する。わたしは今日という日から状況を変えたい! これらのカウンセルと指導の言葉を心に留めなさい。それに行き、あますところなく従い、祝福を受けなさい。

愛する人たち、わたしはあなたに良い物を与えて、甘やかしたい。与えたいだけ、与えさせてほしい!(ML #3462d/GN 1050:483-486,492, 493, 495)

使徒行伝2章44-45節に従って、ファイナンスや所有物を共有にする。;ホーム・メンバーをよく世話する。メンバーの必要ができる限り満たされていることを確実にする。

「CSホーム再評価評価基準」より

憲章の条項、変更後:「各ファミリー・ディサイプルの責任」

J.使徒行伝2章44-45節に従って、自分たちの所有物を、ファミリー全般と、そして特に自分たちのいるホームと分け合い、収入を「共同資金」に入れ、またすべてのファミリー所有物の良き管理者となる。

1.16歳と17歳はホームの経済的な決断や義務に対する責任を負わないものの、アウトリーチや体制の仕事、受け取った寄付による資金に関しては、使徒行伝2章44-45節に従わなくてはならない。

ファミリーは使徒行伝2章44と45節に従うことを信じています。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。」 この聖句は、所有物の使用と所有権の基準となっているため、ファミリーの生活様式の鍵といえます。この聖句とこれに伴う聖句、使徒行伝4章34-35節「彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」の聖句のゴールは、全員の必要が満たされ、必要以上に持っている者は持っていない者に愛の内に分け与えるということです。

「主が教会にまず望まれた事、そして実際に教会が最初に行なった事を私たちは実行している。使徒行伝2章に書かれているように、初代教会の時代、信者たちは共同生活をし、「誰一人、持ち物を自分のものだと主張する者がなく」(使徒行伝4:32)、「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがなく」(ローマ13:8)、いっさいの物を共有した。真に共同生活し、うまくいった。同様に私たちの共同生活もうまくいっている。それもひとえに主のおかげ、また私達の愛、犠牲的な奉仕、人を助けたい、互いを助け合いたいという気持ちのゆえである。(ML#2342:25)

弟子として、私たちは互いに所有物を分け合います。それによって全員が必要な物をすべて持ち、乏しい人が一人もいないようにするためです。この「分け合う」という言葉は、「与える」という意味の時もあれば、「他の人も使えるようにする」という意味の時もあります。

本当にすべての物を分け合っているなら、個人が受け取るギフト、寄付、収入によって、「持っている人」と「持っていない人」が生じたりしないはずです。使徒行伝4:34-35によると、ホームのメンバーが余分の収入を受け取った時も、それを自分の必要だけのために取っておくべきだという意味にはなりません。ホーム・メンバーはホームに全収入を知らせて、そのメンバー自身の必要や望みよりも、むしろホームがまずホーム全体や仲間の弟子たちの必要を考慮できるようにすべきです。

「分割ファイナンス」や「個人のノルマ」の方式を取ると、ある特定のホーム・メンバーが、他のホーム・メンバーが知らない個人のお金を持っているという結果になりますが、そうではなく、本当に使徒行伝2:44-45に生きているなら、たとえお金が実際にホームのビジネス係に手渡されるとは限らなくとも、資金は全額報告され、霊の内ではホームに与えられ、資金を受け取った人はその使い方について進んでカウンセルを受けようとし、自分自身の望みよりもホーム全体の必要を考慮することに委ねるものです。ですから、要するにホームは一つの機関として、個人が受け取った収入を知っており、ホームは全体として、その収入をどう割り当てるかを共に決めるのです。(要請して受け取ったギフトと要請せずに受け取ったギフトの両方に関して、「経済に関するルール」D.1–2.を参照して下さい。)

所有物に関しては、愛、非利己的さ、忠実さが大きく試されます。相手が必要としているのを見て、自分の物を与えるぐらい十分な愛があるでしょうか? 辛いけれどもそれをあえて与えるぐらい非利己的でしょうか? 自分よりも相手の方が必要としているため、それを受け取るのを断るぐらい非利己的でしょうか? また自分が使用する物を忠実に管理しているでしょうか?

個人あるいはホームの持ち物は、何であれ、結局は主のものであり、主の所有物を良く管理するのは私たちの義務です。何か必要だった物を誰かが分け合ってくれた場合、貸りたにしろ、もらったにしろ、良く管理する義務があります。

実際に誰が所有権を持っているかに関して、疑問が生じることもあるでしょう。これは、ホームを移る誰かがそれを一緒に持っていくことを望む時によく起こります。そのような場合、「移動の権利」D.7にあるように、そのメンバーがホームに加わった時に前もってその品目について合意していたのでない限り、ホームは多数決によって決めるべきです。一般的に、重要な品目に関しては、ホームは仕事全体にとって何が最善かを考慮せねばなりません。

新しい憲章の条項:「ファミリー・ディサイプルシップ・ホームの責任」

X.使徒行伝2:44-45に従ってファイナンスを管理し、ファミリー全体とホームにいる人たちと所有物を分け合う。また、各ホーム・メンバーが自分の収入をホームに与え、ホーム・カウンシルによってそれが管理されるような方法で資金を運営する。

「各ファミリー・ディサイプルの責任」J.で説明されているように、ファミリーは、使徒行伝2:44-45と使徒行伝4:34-35を信じ、実践しています。ホームの全員が必要な物を持ち、必要以上に持っている人は、不足している人に対してそれを愛情深く分け合うのです。

ファミリー・ディサイプルシップ・ホームは、ホームへの収入と個々のメンバーへの収入の全額がどう使われるべきかについて、一致した決断をしているべきです。ホームが全体の収入と支出の状況を知っているなら、メンバー全員をもっと良く世話できます。このように運営するのは、その他の手段で寄付や収入を得ることができない人も含め、ホーム全員が持つ様々な、そして特別な必要を世話しようとホーム・メンバーが気を配っているという良いテスティモニーです。これをうまく行かせるには、ホーム・メンバーは自分の必要よりも他の人の必要を先に置かなくてはなりません。これには、資金を受け取る人と、決断する過程に参加する、その他のホーム・メンバーの両方が含まれます。ホームの収入についてどうするかを決める時には、ホームの全員が、本当に自分自身よりも他の人たちのことを考えなくてはなりません。

どのホームにも、医療面であれ、法的な面、勉強、その他の面で、特別な必要を持つ人がいるでしょう。これらの必要は考慮に入れられ、祈られ、ホームが全体的に使徒行伝2:44-45のビジョンに生きることを通して、できる限り満たされるべきです。数人の人が、ホームが知らず、その使い方に関してホームに発言権が与えられていない個人のお金を取っておいているために、メンバー全員の正当な個人的必要を満たせないホームは、不和を招きます。ホーム内において共同所有と分け合うことの感覚が欠如していると、不正直、利己的態度、比べること、不満を助長します。

要するに、メンバー全員が全収入をホームに知らせ、ホーム・カウンシルでその使い方に合意するホームは真に使徒行伝2:44-45に生きており、そのようなホームは、「日々心を一つにして、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さ[る]」という祝福を刈り取るでしょう。(使徒行伝2:46-47)

評価基準の条項:使徒行伝2章44-45節に従って、ファイナンスや所有物を共有にする。「分割ファイナンス」としてよく知られている方法ではなく、憲章にある通りに、各自が自分の収入をホームの「共同」資金に与え、ホーム・カウンシルがその資金を管理する。

ホーム・メンバー全員の収入を共同資金にすることは、ファミリーを他と異なるものとする主要な資質です。体制にも、共同で暮らす人たちがいます。数人の人や、さらには幾つかの家族が一つの家に暮らし、共通の支出を共同で出し合うのです。けれどもファミリーでは、共同生活をするというのは実際にイエスの弟子たちのように生き、お金も含めて「すべてのものを共有にする」ことなのです。(要請した、しないに関わらず、用途が指定されたギフトに関しては、憲章「経済に関するルール」D.1-2.にあるカウンセルを参照して下さい。)

ホーム・メンバーが受け取る収入を真に「共同資金」にするには、様々な扱い方があります。すべての資金が必ずしも、実際にファイナンス・ディーコンに手渡されて、それからホームの経済的な決断に従って様々な必要に配布されなければならないというわけありません。真に共同資金を営んでいるホームは収入を全額報告し、その収入をホーム・カウンシルの管理下に置きますが、そのようなホームでも、以下の例のような取り決めをすることができ、なお共同資金の霊の範囲内にいることになるのです。

例:ホームは、話し合い、祈り、投票によって、ホームにいる個人や親が、様々な収入源から受け取る収入の全額あるいは一定の割合を、特別な医療、法的な事柄、教育、その他特定の必要のために取っておいてもよいと決めることもできます。そのような場合、ホームは元々の収入の額と、投票で決めた目的のために使われた金額を知っておく必要があります。そして、受け取った資金が必要な額よりも多いなら、余分の資金はホームの共同資金に与えられることになります。

ホームに二家族いて、片方の家族が寄付を受け取り、ホーム・メンバーは投票により、それをその家族の子供の教科書を購入するために使ってよいと決めたとします。けれども、もう片方の家族がそのような寄付を受け取っていないとしたなら、使徒行伝2:44-45に生きる事の真の霊によって、ホームは、もう片方の家族も、子供の教科書を購入するのに十分なお金を持っていて、子供たち全員の必要が平等に満たされていることを確実にするでしょう。ホームは、その目的のための特別な資金調達の日を設けるか、ホームの予算からか、あるいはその他の方法であれ、何であれ、もう片方の家族の必要を供給するのに必要なことをするでしょう。

真に共同資金を営み、一切の物を共有にしているなら、ホームの経済面での決断や、個人が受け取る寄付の管理によって、「持っている人」と「持っていない人」が生じるという結果にはならないはずです。ホームの何人かのメンバーが、個人的な収入源により、他の人たちよりももっと十分に必要が満たされているなら、ホームの霊的なバランスは正しくありません。また、ホーム・メンバーが外部の収入源から収入を受け取ったからと言って、必ずしも自分の必要のためにその全額か、何割かを取っておきたいとリクエストすべきだということではありません。その人は、自分の必要や願いだけでなく、ホーム全体や仲間の弟子たちの必要を考慮すべきです。

上に説明したように真に使徒行伝2:44-45に生きることと、「分割ファイナンス」方式(あるいはホームがノルマ方式を取ると同意するか、結果として特定のホーム・メンバーが、他のホーム・メンバーの知らない個人のお金を持つことになる方法)との違いは、上の筋書きからすると、お金は実際にファイナンス・ディーコンに手渡されず、いわば文字通り共同資金の封筒には入れられなかったものの、その資金は全額報告され、霊の内で共同資金に入れられたということです。なぜなら、資金を受け取った人は進んでその資金の使い方についてカウンセルしようとし、ホーム全体の必要を考慮に入れることに委ね、そのお金の使われ方に関してホームの決断に従おうとしていたからです。

要するに、ホームは一つの機関として、個々のメンバーが様々な収入源から受け取った収入を正確に知っており、そのメンバーが特定の必要のためにその収入の全額あるいは一部分を取っておいてもよいかどうかを共に決めた、ということです。それは分割ファイナンスの分類には入りません。むしろ、ホームは共同資金のお金がどう使われるかについて一致した決定をしています。そして、もしホームが、他の収入源からそのような資金を得る手段を持たないメンバーたちの必要を知っており、それを満たしているのであれば、これはホームがそのメンバーの様々な特定の必要を満たしているという、良いテスティモニーです。

私たちが「分割ファイナンス」と言っているのは、夫婦であれ家族であれ、数人の人々が一つ屋根の下で暮らし、それぞれが請求書の一定の割合を払わなければならず、彼らが稼いだその他のお金は個人の資金になって、ホームはそれがどう使われるかに関して何の権威も発言権も持たず、しばしばホームは、各メンバーがホームの予算に入れるよう要求されている一定の割合の額以外に得た収入が幾らであるかさえ知らない場合のことです。体制ではこのような経済面での取り決めがよくあり、お金や家賃、光熱費などを節約するために、家族や個々の人が一つ屋根の下に共同で暮らすのですが、彼らは共同生活を営んでいるわけではりません。そのような取り決めだと、ホーム・メンバーが受け取った資金が完全に報告されていないので、ホームはホームが十分の一税を全額払うことが保証されません。

どのホームでも、特定の必要(医療上、法的な事柄、教育面など)を持つ人がいるでしょう。それらの必要は使徒行伝2:44-45のビジョンに生きることで満たされているべきです。ホームとして、ホーム・メンバーが持つ正当な個人的必要を満たさないなら、知らず知らずの内に、不正直や、真の共同資金をしないこと、不満、不和を助長することになりかねません。ホーム・メンバーの緊急の個人的必要が満たされていないなら、なかなか個人的な収入を報告する気になれないでしょう。そのような収入を使って個人の必要を満たす誘惑に駆られるからです。

個人の医療、教育、法的な事柄、その他重要な必要以外にも、各ホーム・メンバーのために「個人のお金」を予算に組み入れることも、十分価値があります。これらの資金は、医療関係の支出や、子供のための翌年の教科書などを買うためのものではなく、むしろ、ホーム・メンバーが出かけた時に食事をしたり、自分のために何か「余分の」物を買ったり、誰かのためにプレゼントを買ったり、休みの日に何か特別なことをするためのものです。また、遠足、特別なスナック、子供が持つ特別な必要などのために、子供一人につき一定の個人のお金を親にあげるのも理想的です。

ホームはそのような個人の資金に多額のお金を割り当てることはできないかもしれませんが、これはホームのインスピレーション・レベルを上げるので、幾らかでも割り当てるよう努めるべきです。ホーム・メンバー全員の必要が満たされていることを確実にするステップを踏むなら、たとえ信仰を引き伸ばし、ホームの予算を多少増やすことが必要だとしても、主はあなたのホームを豊かに祝福して下さるでしょう。主は供給でき、そして供給したいのです!

要約すると、真に使徒行伝2:44-45に生きているホームは、収入の全額を報告し、その使い方についてホームの投票メンバー全員(18歳以上)がカウンセルし、合意するということです。これが真の共同資金です。収入の全額が報告されるなら、十分の一税が正確に納められることが保証され、その結果、主の完全な祝福を受け取ることができます。また、収入の全額を報告することで、WSや、必要を抱えたその他のホームや活動に捧げ物として与えられる分があるかどうかを見ることもできるようになります。(GN1107 憲章の修正事項: 共同資金)

「使徒行伝1-10」より

(ダッド:)「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし」・・・彼らはいっさいの物を共有にした! 共産主義のように聞こえる! 真の共産主義が存在しうるのは、互いへの愛と忍耐の内に聖霊の影響を受けている時だけだ。つまり、自分の口から食べ物を出して、他の人も食べられるようにする時だ! 「資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。」

あなたは、神が教会のために経済計画を持っておられると思うか? 絶対にそうだ! それはすでに2章44節と45節で述べた。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし」、つまり分け合ったのだ! 彼らは共に住み、共に分け合った。そして、資産を持っていた者はそれを売って、必要に応じて他の人たちに分け与えた。

「それぞれの力に応じて」、何であれ持っていたものを、「必要に応じて」、つまり、何でも必要な物だ! それが教会のための神の経済計画だ。あなたは言う。「ああ、それは昔のことです!」 さて、4章にもまた書かれている。「・・・大胆に神の言を語り出した。信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、」 それが御霊の完璧な団結だ!

「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、」 そのように物を共有するには、心と思いが一つでなくてはならない。 「いっさいの物を共有にしていた」(31節、32節) 彼らはいっさいの物を共有にしていた! そしてその実は何だったのか? 「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。」(33節) 彼らには力と恵みがあった!

他の人と分け合うなら、あなたには多くの恵みがある。そして、神は多くの力も与えられる! アーメン? それが主に使われている限り、自分の持ち物のことなど気にしないならば! 教会のための経済的な実は何だったろう? 「彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった!」(34節) 彼らにはほしい物すべてはなかったかもしれないが、誰一人、必要に事欠いた者はいなかった!(ML #1383:41, 71-74)

「直言、パート1-いっさいの物を共有にする?」より

(ママ:)ファミリー内に忍び込んだ傾向の一つに、夫婦が自分の家族のために物や財産や所持品などを手に入れることを望んだり、それに働きかけたりすることがあります。自分たちの車や家具、所有物などをほしがり、必要な物すべてを所有するために、多くの時間やエネルギー、さらにはお金を費やします。それから、自分たちの持ち物を他の人に貸し、そのお返しに他の人から何かを借りるのではなくて、非常に独占的になるのです。物の管理や、人々が他の人の物をちゃんと扱わないことに関してはありとあらゆる問題があり、それが個人の物を所有したがり、貸すことをためらうというこの傾向を助長しているのは間違いありません。けれども、結果として、利己的さや強い所有欲が生じており、それは使徒行伝2章44-45節の基準とはかけ離れています。

神の見解:

(イエス:)利己的になり、自分自身や自分の必要、願い、安楽を優先し、さらにはほしい物を手に入れるために多くの時間や労力をつぎ込むのは、人間の自然な傾向だ。悪魔は時の始めからそれを広め、時が経つにつれ、その傾向はどんどん強くなっている。いつだって、手に入れたい良い物はもっとあるからだ。

じつに、この個人的な安楽を求める利己的さと願望が、世界一般とファミリーの両方に存在するほとんどの世俗的欲望の根元だ。この霊は、人類社会にかなりはびこっている。良い物を持っている人はもっとほしがり、持っていない人もそれらを追い求める。この傾向がファミリーにも根を張ったこと、また人によっては最低限、あるいは極度に、自分や自分の家族のために物や安楽を手に入れることに専念し、それらを私物化し、自分たちだけで使いたがり、他の人に貸したがらないというのは、不思議なことではない。さて、これが人間というものであり、これがこの世の霊だが、それがわたしに受け入れられているわけではない。それは、わが方法ではない。

人間の性質には、利己的で邪悪で、克服すべきものが数多くある。わたしは、あなたを試み、戦う気を起こさせるために、これらのものを人間の性質の一部にしたのだが、それはあなたがその弱さに屈し、委ねるためではない。わたしは、あなたが個人の所有物や私的財産、利己的な生き方という事柄において、この世の方法、すべての肉の方法を行くことを意図していない。

特にわが終わりの時の弟子であるあなたがたに対しては、わが方法とは、共同生活、いっさいの物を共有にすること、わたしが供給する祝福を使い、困っている兄弟に与え、また同様にあなたが困っている時にはその兄弟から与え、分け合ってもらうことであるのを、すでに聖書やレターというわが言葉に書かれている以上に明確にすることなどできないと思う。

それがどうして大切か、どのような益があるかについては、ここで長々と説教をする必要はないが、これを思い起こさせたい。これは、周りの気違いじみた競争社会の体制とあなたを異なるものにする、ファミリーに必要不可欠な特質なのだ。それについて書いてあるレターについては、幾らでもリストをあげられる。また、これも思い出させたい。そもそもわが教会は使徒行伝から始まったのだ。わが教会の運営方式の具体的な所や細かい点はあれ以来かなり変わったが、基本的な原則は変わっていない。

団結は今でも最も重要であり、いっさいの物を共有にし、使徒行伝2章44-45節に生きることは、団結の欠かせない要素だ。それはどこも変わっていない。それを否定するものはない。それをうまく言い逃れたり、修正したり、もっと「現代的」にすることはできない。わたしは今でもファミリーが、分け合い、与え、いっさいの物を共有にする、互いに依存し合う人々からなるコミュニティーになるよう意図している!

時には、誰かが特定の物を「所有」しなければならないこともある。たとえば、誰かが車の名義人になって、保険や登録、修理の義務を果たさなければならない。その場合、あなたは管理者としての態度を取るべきだ。責任感を持って、きちんと手入れや維持がされていることを確認するという、自分の分を果たすべきだ。だが、あなたがそれを法的に「所有している」からといって、他の人よりもそれを使う権利があるとか、さらに悪いことに他の人はそれを使う権利はなく、代わりに他の人も自分のを手に入れるべきだと考えてはいけない。

また、機材や楽器類など、仕事のために使う道具もあり、それを使っている人がその手入れをし、責任を負っていると考えるのは当然だろう。だが、それでも、自分が使っていない時には、必要な人に貸してあげることができる! ちょっとした個人の所有物についても同じ事が言える。どんなにわずかしか持っていなくても、与えたり、分かち合ったりできる物が必ずある。そして、それが最も一般的な生き方であるべきだ。

所有権や管理という問題に付随する詳細、「法律」、技術、ハウツーは憲章に書かれており、そこに、このような所有物や管理に関する「厄介な点」が取り上げられている。けれども、人々が法律には従うが、その法律の神髄、背後にある目的や精神を忘れる時、問題が生じる。

法律は、より複雑な状況に対処するためになくてはならない。そして、複雑な状況というのは出てくる。あなたがたはこの世の者ではないものの、この世に生きており、実際的な細かい事に関してはルールに基づいて行動しなければならないからだ。だが、法律自体が中心的な論点ではない。それは単にわが計画を実施するための手段であり、またあなたがある程度関わらなくてはならないこの世のやり方を、あなたが重視すべき共同生活の精神というわが方法と調和させる方法を見出すための手段にすぎない。

大きかれ小さかれ、あるいは中ぐらいであれ、個人の所有物と物の管理に関する根元、神髄、精神、核心とは、あなたはあなた自身のものではなく、代価を払って買い取られたということだ。あなたが持っている物も、あなた同様、あなた自身のものではなく、わたしのものであって、わが奉仕や他の人のために使われ、兄弟と分け合うことになっている。それがあなたの使徒行伝2章44-45節の「現代版」だ。そして、わたしはファミリーに、この精神に生きてほしいのだ。

あなたはこれについて討論することもできる。マイナス面や非現実的な点、細かい所や詳細、予想できる事などを思い存分、話し合うこともできるが、それでも基本的な原則、真理は変わらない。共同生活やいっさいの物を共有にすることに関しては問題がある。管理の問題や、正しく手入れしないこと、無責任さ、互いに信頼し合っていないことなどの問題がある。これらは解決されなくてはならず、それは難しいかもしれない。だが答は、資本主義や個人の所有、独力で生活すること、各自が自分の所有物を手に入れることではない。

分け合うことや共同生活には問題があるが、分け合わず、共同生活しないことから生じる問題はさらに悪い。分け合うことから生じる問題は、どちらかというと実務的で実際的なレベルのものであって、これらは厄介で複雑な問題ではあるが、愛、祈り、コミュニケーション、訓練によって解決できる。一方、利己的な生活と個人的な財産や物を手に入れることから生じる問題は、霊的な退廃と、その結果として、団結の破滅につながる。そして、団結とは、ファミリーの弟子としてのライフスタイルにおいて最も重要な要素の一つなのだ。

だから、選びなさい。わが言葉にある、与え、分かち合うという原則に基づいて生き、それに伴う困難や問題に対処するか、それとも、この世と利己的さと物質主義の原則に基づいて生きるかを。だが、その場合は出て行って、他の場所でそれをしなさい。それは、ファミリーの弟子としてはもはや容認できない生き方だからだ。(ML #3499/GN 1086:54-68)

「罪を具体化する」より

(イエス:)あなたたちの多くが、今日、この時代に使徒行伝2章44-45節に生きることは不可能だと考えている。それは間違っている。あなたたちは、世界は大いに変わり、今では体制は異なっていて、ファミリーの構成や運営方法、慣例でさえ異なっていると感じるので、自分自身の家族や家、所有物を持つのは正当だと考えている。あなたたちは、革命的なエンドタイムの弟子のためのわが計画に不可欠な部分である、弟子と共同生活の霊からはずれつつある。

あなたは、根本的な弟子たることとラディカルな生活から遠く離れていくべきではない。より近づき、もっとドロップアウトし、もっと清くなるべきだ。今は、すべての利己的さと、こぢんまりした独立的な生活を変えるべき時だ。わが言葉の基本、つまり、犠牲、与えること、分かち合うこと、すべてのものを共有することに戻るべき時だ。このように、自分自身を与え合うことによってのみ、あなたたちは団結し、わが終わりの時の新しい教会という真のテスティモニーになれるだろう。(ML #3453/GN 1038:39, 40)

「主の愛の律法に生きる!-パート2」より

[ダッドの著述より:]私達が真の愛を持っているなら、助けが必要な事態に直面した時に何もせずにはおれないはずだからだ。私達はエリコに行く途中の哀れな男のそばをただ通り過ぎることはできない! サマリヤ人がしたように、私達も行動しなくてはならない!(ルカ10:25-37参照)今日の教会体制は言う。「ああ、気の毒に。何とかわいそうなことでしょう!」 しかし憐れみは行動に移さなければならない! かわいそうにと思うことと憐れみの違いというのは、かわいそうにと思うことはただそう感じるだけだが、憐れみはそれについて何かをする!

私達は私達の信仰を行ないによって示さなくてはならない。そして愛というものは、実際の行動によらないでは、めったに証明できないものである。あなたが誰かを愛していると言いながら、それでも相手が必要としている面で、たとえば食物、衣服、住居などの面で肉体的に助けようとしないなら、それは愛ではない! 真の愛に対する必要は霊的な必要だが、愛は行ないによって実際的に表明されなければならない。「愛によって働く信仰」である!(ガラテヤ5:6)

「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。私達は言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか!」(1ヨハネ3:17,18)

しかしながら、私達の愛の最大の現れは、ただ単に私達の持ち物を分け合うだけでなく、私達自身を分け合うこと、つまり他の人々への私達の奉仕にあると私達は考えている。それは私達の信仰であり、その信仰が私達の行ないにつながり、持ち物を分け合うという結果になるのだ。イエスご自身、その愛と命以外には弟子達と分け合う物を、何一つ持っておられなかった。しかしイエスはその愛と命を弟子達と私達のために与えて下さった。それは私達もまた愛と命を永遠に持つためであった!

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない!」(ヨハネ15:13)だから私達は、私達自身を、つまり私達の愛と人生とを他の人々と分け合うことが、分け合うことの中でも最も偉大なものだと考えている。それは私達の究極的な目標である。(ML#607:9-13)

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」「それゆえに私達もまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」あなたは飢えた兄弟や姉妹のために、自分の命を、あるいは自分の妻でさえ、捨てる気があるか?

あなたは傷つくまでそれを与える気があるか? それがあなたを傷つけるまででさえ?イエスはそうされた。イエスはご自分の命を与えられた! 神はそうされた。神はご自身の御子を与えられた! ダビデはそうした。彼は言った、「わたしは代価のかからないものを主に捧げることはしない!」 彼は傷つくまでそれを与えた! 神はご自身の妻、すなわち教会を、他の人達への愛の奉仕をさせるために絶えず与えておられる! 彼女はこの世界を求愛し、勝ち取る努力をして絶え間なく忙しいのである!

「持っている者からはその能力に応じて、持たない者にはその必要に応じて。」 これが分け合うことの愛の原則であり、愛に満ちて分け合うことの原則である!(ML#833:41)

使徒であり聖徒であるヤコブは、その第二章、15節から17節ではっきりとこう述べている。「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物(セックスなど、不可欠の肉体的必要)にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」(ヤコブ2:15-17)

つまり、神の信仰において誰かを本当に愛しているなら、あなたがそれを何か目に見え、感じることの出来る行動に出て、言葉を行動で表し、信仰を実践して、それを絵空事(えそらごと)ではなく事実にしない限り、すなわち説教ではなく、手本で示してやらない限り、彼らにはそれが理解できないし、信じることも出来ない!イエスご自身もこう言われた。「わたしを愛していると言いながら、なぜわたしの言うことを行わないのか?」(ルカ6:46)(ML#502:21-23)

第一のおきては、愛のおきてである。非利己的な愛、神と他の人達への愛のおきてだ。もしあなた達が、そのおきてに従い、神や他の人達に与えられて当然のその愛を与えるなら、あなたもそれを受け取るようになる。「自分が人々のふところに入れるものを量るはかりで、自分に与えられるものも量り返されるであろう。」(ルカ6:38)(ML#250:44)(ML #3202/Vol 25:9-15, 18-21)

新しい弟子が「すべてを捨てる」・・・

「使徒行伝1-10」より

(ダッド:)「地所や家屋を持っている人たちは」、つまりそれらを持っている人たちは、「それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」。(v.35.)

その結果、ある意味で、(持ち物を共有にするという)原則において、教会では第二の危機が訪れた! 5章では、二人の人が、他の皆がすべての持ち物を捨てたゆえに得ていたのと同じ栄光や功績をほしがった。彼らは自分たちもすべてを捨てているように見られたかった。間違いなく、すべてを捨てることにはある程度の栄光が伴っていたのだ。そうに違いない。そうでなければ、アナニヤとサッピラは人々や主を欺いて、自分たちもすべてを捨てているかのように見せかけようとはしなかっただろう。

すべてを捨てることは、当時、教会に加わるための条件の一つだったようだ! もしかしたら彼らは自分たちの義務を果たさずに教会に加わろうとしていたのかもしれない! 人は普通、本当に自分の立場を明確にして主に仕えるには何をしなくてはならないのだろうか? すべてを捨てるのだ!

あなたがまだすべてを捨てていないなら、まだ大切なテストに合格したことにならない! たぶん神はいつかあなたへのサポートを止めて、何もないという状態にするか、すべてを捨てるという選択をせざるを得ない状態にするかもしれない!

アナニヤとサッピラは、実際はそうでないのに、すべてを捨てたようなふりで通せると思った! そして、神は彼らを素早く倒されたのだ! 神は欺く者や偽りを言う者、今日の教会の人々のようにすべてを捨てたふりをする者たちを望まれなかった!

神は彼ら(アナニヤとサッピラ)を急いで倒し、彼らはバタリと死んだ。彼らは聖霊に偽りを告げようとしていたからだ! 彼らが恐れのみによって死んだのか、死ぬぐらい恐れたのか、神が彼らを殺されたのか、私たちにはわからない。だが、5章11節にはこうある。「教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。」 (ML #1383:75, 88–91, 93)

「高校、カレッジ、大学に行きなさい!」より

(ダッド:)直視しよう。至るところで私たちの宣教師達をサポートしてきたのは何だろう? まず一つは彼らがジョインした時の彼ら自身のお金、フォーセイク・オールは、彼らだけでなく、私たちのサポートにもなり、同じことができる他の人たちをも勝ち取る助けになった。当時は、おもに寄与できる何かを持つ若者がジョインすることによってサポートされていたのだった! (ML #1418:3)

「仕事をしなさい、さもなければ自国に帰りなさい!」より

(ダッド:)彼ら[新しい弟子]の多くはかなりの物的手段を持っており、個人の持ち物から実際の資金に至るまで様々なものを持ってきた。すべての国でも最も貧しいごくわずかな人を除いては、持ってくる個人の持ち物を何も持っていない人はいない。そして、特に豊かな自国にいる人たちはたくさんのものを持っており、彼らはたくさんのものを持ってきた。それで、私たちは必要としているありとあらゆる物や資金が豊かに供給されたのだった。主に感謝せよ! (ML #1677:54)

「あなたは神のものを盗んでいるのか?-確信対妥協、パート8」より

(ピーター:)年月を重ねるにつれて、ファミリーの経済構造は発展して行き、今ではかなりうまく営まれている経済制度になりました。始まったばかりの頃、ファミリーはほとんど完全にフォーセーク・オールに依存し、最低限のプロビジョンで何とかやっていました。TSCとロサンゼルス(また、その他多くの初期のコロニー)では、たくさんの人たちが、自動車、ステレオ、銀行の預金や楽器などのフォーセーク・オールを持ってジョインしていました。新しい弟子たちは自分の持ち物を持って来て、それを使徒たちの足下に置いて与えました。そしてそれを、それぞれの必要に応じてすべての人に分配しました。そして、それはうまく行きました! (ML #3461, GN 1046:7)

「罪を具体化する」より

(ピーター:) 近年ジョインした新しい弟子の中には、体制にいる親族に自分のアパートや車を残してきた人たちがいる。すべてを捨てず、コミュニティー、つまりファミリー・ホームに与えない。「念のために」、頼れる何かを取っておいている。

(イエスが語っている:)あなたたちの多くが、今日、この時代に使徒行伝2章44-45節に生きることは不可能だと考えている。それは間違っている。あなたたちは、世界は大いに変わり、今では体制は異なっていて、ファミリーの構成や運営方法、慣例でさえ異なっていると感じるので、自分自身の家族や家、所有物を持つのは正当だと考えている。あなたたちは、革命的なエンドタイムの弟子のためのわが計画に不可欠な部分である、弟子と共同生活の霊からはずれつつある。

あなたは、根本的な弟子たることとラディカルな生活から遠く離れていくべきではない。より近づき、もっとドロップアウトし、もっと清くなるべきだ。今は、すべての利己的さと、こぢんまりした独立的な生活を変えるべき時だ。わが言葉の基本、つまり、犠牲、与えること、分かち合うこと、すべてのものを共有することに戻るべき時だ。このように、自分自身を与え合うことによってのみ、あなたたちは団結し、わが終わりの時の新しい教会という真のテスティモニーになれるだろう。 (ML #3453, GN 1038:39, 40)

主がホームに与えられた物質的な祝福の良い管理を習慣とする。

「あなたのお金はどこにあるのか!-パート1」より

(ママ:)主は賢い投資家です! 主は、すでに与えた祝福を感謝している人や、頻繁に主を賛美することによって感謝を示し、主の物質的祝福の良き管理者となり、主が与えられたお金に対して緊縮経済を実行し、主の寛大さを当たり前と思うようになっていない人に、最も多くを与えます。すでに持っているものをちゃんと管理せず、物を劣化させたり無駄にさせたりする人に与え続ける後援者は一人もいないでしょう。ですから、今持っている物を賢く管理せず、感謝していないのに、どうして主が供給の祝福を与えられると思うのですか? 主は不忠実さ、無駄、不平、馴れ合いを祝福しません。

これは世界中の多くのファミリー・ホームで、まさに問題となっています。供給主である主が与えられた物に感謝せず、主の豊かな供給ゆえに主を賛美していません。また、ホームや車や機材も、当然すべきほど手入れしていません。ですから、主はあなたが他の持ち物と同じようにそれを駄目にしてしまうだけだとわかっているのだから、もっと質の良い物を与える気にならないのも当然のことです。あなたは得ているプロビジョンを感謝せず、不平さえ言い、慣れっこになってそれを無駄にしています。ですから主は当然、供給ラインを増やすつもりはありません。

私たちの夫である主が供給される物を大事に扱い、良き管理者となり、主の祝福を感謝し賛美しているのを主が見られる時、主は心を動かされて、あなたの基本的必要よりもさらにもっと供給したくなります。主はあなたを甘やかしたいのです。主はあなたに経済と物質の祝福を豊かに与えたいのです。けれども、主は、富や祝福を無駄にしたり、それを恩知らずの人の所に与えたりするつもりはありません。御言葉にはこうあります。「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(1コリ4:2) つまり、主のすべての祝福を感謝し、それを大事し、また、それを主の奉仕に賢く投資することに忠実であることです。マタイ25章にあるタラントと賢い管理者と愚かな管理者のたとえ話でわかるように、主が与えられる物を、賢く、祈り深く、忠実に扱う人は、さらにたくさん受け取り、祝福されるでしょう。

主が祝福として与えられた物に対して良き管理者になることについて話しているついでに、兄弟たちの持ち物やホームの物品を良く管理することについても忘れないようにしましょう。これは、私たちのホームにおいて、しばしば情けないほどに欠けています。忠実さや勤勉さ、他の人たちへの愛と思いやり、外部者たちへの見本の悲しむべき反映であるばかりか、ホームの団結を滅ぼし、利己的さを助長しがちでもあります。このレターの予定原稿を読んだあるCOがこのようにコメントしました。

人々が物を分け合いたがらない一因として、物の管理が良くないというのがあります。共有物について無頓着になりがちなのです。中には自分の持ち物にさえ無頓着な人もいます。ですから、コンピューター、カメラなどの高価な物についてその人を信頼するのが難しいのです。動機を疑っているのではなく、注意してその機材を扱う能力があるかどうかを信用できないのです。これが気になっている人は大勢いると思います。とても多くの共有物や借りた物が、手違いや、さらにはすっかり置き忘れてなくしてしまったことによって損失を受けたのを見てきたからです。ですから、主がお粗末な管理者を祝福されないと知っているので、その機材を使わせるべき理由がわからないのです。

ファミリーの皆さん、どうか互いの持ち物の良き管理者となり、自分の物であるかのように扱って下さい! 「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(1コリ4:2)(1Cor.4:2). (ML #3462a, GN 1047:126-130‚ 133)

「あなたのお金はどこにあるのか!-パート4」より

(イエス:)わが花嫁の多くは、わが祝福に馴れすぎてしまった。これまで長年の間、あなたはわたしが資金やプロビジョン、機材、家など多くの物を供給する事に慣れてしまったが、わたしに感謝する事は忘れている。あなたはわたしが毎日与えている小さな祝福や贈り物の多くを見過ごしている。わたしの奇跡を軽く見ていて、十分賛美しわたしに感謝しているというにはほど遠い。わたしがどんな気持ちかわかるだろうか? 感謝されず、気づかれず、気にかけられてもいない! 持っている物に感謝さえしていないなら、わたしはあなたにもっと与えたいという気持ちにはならない。

あなたはわが祝福を軽くあしらい、いつももっとほしがり、より大きくより良い祝福や、必要物のためのもっと多くのお金を要求する。だが、あなたは、たとえ貧しい時でもわたしを賛美するならわたしはそれを喜ぶという事を忘れている。どんなに小さな事でもあらゆる祝福をわたしに賛美するなら、わたしはもっと与えずにはいられない気持ちになる。あなたが感謝していて、全ての事についてわたしに栄光と名誉を捧げていると知っているなら、わたしはあなたにもっと与えたくなり、もっと与える事を喜び、あなたを世話してついつい甘やかしてしまう。あなたにわたしの富を与えたくてたまらないからだ。

また、わたしは、与えられた物質的祝福をあなたがどのように手入れしているかも見ている。車をめちゃくちゃにし、維持や整備を見落としているだろうか? あなたの車は、ホームやわたしの名に対する恥か? あなたのホームは汚く、だらしないか? 物が壊れ、悪い見本になったら、それを修理するだろうか、それとも完全に壊れるまでそのままにしておくだろうか?

わたしが供給しているプロビジョンはどうか? あなたはそれが好物ではないとか、一つの物ばかりたくさんあって望むほどのバラエティーがないので、不平不満を言っているだろうか? あるいは、食べ物であれ、お金、時間であれ、わたしが与えたものを無駄にしているだろうか? わたしは幾千もの丘の家畜や全ての鉱山の富を所有しているのだから、いつも与えるものはもっとあると考えて、わたしが供給するお金を無駄にしているだろうか? あなたは、倹約の意味を忘れてしまったのか?

もちろん、わたしは裕福で祝福をたくさん抱えた夫だが、穴だらけの財布やポケットには与えない。わたしは、それが最大限に使われ、わが仕事に投資される所、1セント1セントが大切にされ、賢く使われるとわかっている所に一番多くを与える。わたしは、わたしへの奉仕に必要とされる物の良き管理人、世話人になるとわかっている人に与える。

あなたは、わたしが与えた物をどのように手入れしているだろうか? 供給の奇跡についてわたしをどれだけ賛美し、感謝しているだろうか? わたしから受け取る事に慣れてしまい、もはやわたしの気前の良さを感謝したり、認めたりしていないのだろうか? もらい、ため込み、受け取りたがるだけで、滅多に「ありがとう」も言わない甘やかされた子供のようになってしまったのか? あなたの生活とホームをじっくり見てみなさい。あなたはわたしが与える物を感謝し、手入れするだろうか、それとも無駄にし、腐らせ、悪くしてしまい、壊し、結局台無しにしてしまうのだろうか?

わたしはお金をみすみす無駄にしたり、底なし穴に供給の賜物を落としたりするつもりはない。わたしが関心を持っているのは、後に残る活動を築き、世界を勝ち取る仕事をちゃんと行っているホームに投資し、祝福のひとしずくひとしずくを感謝する人たちに祝福の雨を降らせる事だ。(ML #3462d, GN 1050:422-428)

必要とする人に与える。

「証とフォローアップの落とし穴!」より

(イエス:)わたしは、わがファミリー全体に豊かに溢れるほど供給したい。でも、わが祝福を受け取る信仰があり、わたしに信頼してそれを譲ることのできる男女を見つけるのは難しい。わたしが与えた物にしがみつき、自分を守り、保存する事を望むというのはまことにサタンの誘惑である。それは信仰の欠如であり、わたしに対する信頼の欠如である。

あらゆる良い贈り物、完全な贈り物は上から、わたしを通じて光の父から下ってくる。わたしはそれを豊かにわが子らに与える。わが祝福を他の人に与える者もいるにはいるが、多くはそうしない。贈り物を感謝してはいるが、他の人たちと分け合うことで、わたしにそれを倍増させる機会を与えようとしない。わたしは喜んでわが子らに与える。しかし、それがその人にとって十分以上であるのに、分け合ったり、与えたり、わたしの仕事を進めるために使われないのを見ると、悲しくなる。わたしが全員に与えた物が、最初に与えた者のところで止まってしまい、利己心と信仰の欠如によって、全体への祝福の流れが一人の所で止まってしまうのを見ると、わたしは悲しくなる。

あなたの信仰はどこにあるか? あなたは、最も神聖なるわが言葉の上に信仰を築かなければならない。わたしは、わが栄光の富の中から、あなたの全ての必要を、どの様な必要も満たすからだ。毎日わたしは扉をたたき、あなたの前までキング達を連れて行き、戸口に富を届けているが、わたしがこれらの友人を通して与える祝福はしばしばあなたの所で止まってしまう。あなたが他の人たちに流れさせないので、彼らからの贈り物や祝福がそれ以上増えないことがよくあるのだ。贈り主を豊かにするのでなければ贈り物は増えない。そして、贈り物を自分だけに取っておき、わたしやわが仕事に与えようとしないなら、贈り主は豊かになることがない。

わたしがダビデの家にもたらそうとする富は大いなるものだ。しかし、わたしが与えたものがそこで止まってしまうなら、どうして全体を祝福する事ができようか? それはあなたの所で止まるべきではなく、他に渡されるべきだ。自分の所だけに流れさせるのではなく、あなたを通して流れさせるべきだ。

わたしは、あなたがたを養わないだろうか? 服を与えないだろうか? 世話をしないのだろうか? だから、わたしが余分に与え、祝福を余分に与えたり送ったりしても、過度に強欲になってはならない。むしろ、それがわたしを喜ばせ、小さな物と少しの物に忠実になることであると知って、朗らかに、喜んで心から他の人と分け合いなさい。そして、あなたが与え、犠牲を払うことで、わたしはわが家により多くの祝福をもたらす事ができるようになると知りなさい。

強欲ではなく忠実になり、利己的になったり、自分自身を救うことを求めるのではなく、わたしへの奉仕という祭壇の上に自らを捧げなさい。それがわが目に喜ばしいことである。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしや他の人たちに仕えるためそれを捨てる者は、それを救うからである。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。与えない者は貧しくなる、しかし与える者は富を増す。

これをもってわたしを試み、わたしがあふるる恵を注ぐか否かを見なさい。あなたが注ぎ出すならば、わたしは注ぎ入れる。あなたはわたし以上に与えることはできない。与えるならば、おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、自分にも与えられる。小さなものに忠実である者は、大いなるものの監督者となる。

わたしに信頼し与えることでわたしを試みよ。そして、わたしが、あなたがたが持ちきれないほど祝福するかどうか見なさい。あなたが与えるごとに、すぐにわたしは供給する。ただ単に信じなさい。自分の損となるまで与える事は、わが目には大いなる信仰の行いである。それは、その人が自分の命を省みず、わが前に生ける犠牲として注ぎ出す事を示すからだ。それは満足させるものであり、わが霊と祝福を呼び込む。

だから、どうして貧しくなることがあろうか? その日の供給があるかどうか、どうして恐れるのか? わたしは、あなたがたが豊かになり、他の人たちに与え、流れさせ、注ぎ込んで欲しいと思っているのに。わたしはあなたがたが、欠乏に対する恐怖と束縛と、己の命を救うことを求めることから解放されて欲しい。わたしはわがしもべたちに、与えることに富んで欲しいのだ。 (ML #3245, GN 847:85–87, 90‚ 93-97)

3. 愛の律法と一人の妻のビジョンに生きる。

愛の律法の原則に基づいて、ホームのメンバーやホーム外のメンバーを扱う。

「主の愛の律法に生きる!-パート1」より

(ママ:)大まかに言えば、愛の律法とはクリスチャンである私たちの生き方全体を支配しているべき敬神的な原則です。イエスはこの有名な「黄金律」の節に、人間関係の重要な鍵を要約しておられます。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ。これが律法であり預言者である。」(自分と同様に隣り人を愛することが、神の律法を実行することであり、そのような愛こそ『律法であり、預言者である』という意。[マタイ7:12]) 理想としては、このような愛の原則が、人々への私たちの全行動を導いているべきです。(ML#2858:2、GN555)

愛の憲章では、憲章メンバーの責任の一つについて次のように述べています。「愛の律法の原則に従って生活するよう努めること。すなわち、自分が住むホームのメンバー全員、さらにはファミリー・メンバー全般を愛し、思いやり、愛と調和に満ちた人間関係を持つこと。」 さらにこう続いています。「ダッドは愛の律法を簡潔にこう説明しています。『愛はあなたの隣り人を傷つけない。なぜなら自分を愛するようにあなたの隣り人を愛するからだ。これこそ、神の愛の律法である! 人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ。そのような愛に反する律法はない。これが主の愛の律法である。それに従うなら、主における完全な愛と命と自由を手にすることができる。これらは神の条件である。』」(憲章、各メンバーの責任、E)

愛の律法を実践するとは、ただイエスが律法だと言われたこと、つまり一番の戒めである愛に生きることです。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である。」(マタイ7:12)「先生、律法の中でどの戒めが一番大切なのですか。イエスは言われた『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な第一の戒めである。第二も同様である。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。これらの二つの戒めに律法全体と預言者とがかかっている。』」(マタイ22:36-40)「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句につきるからである。」(ガラテヤ5:14)

まず神を愛し、自分を愛するように他の人を愛せよという、イエスが布告されたこの愛の律法は、聖書のその他の律法すべてをまっとうしています。つまり私たちは、聖書のありとあらゆる古い律法から解放されているということです。たとえば、あなたが心と魂と思いをつくして主を愛しているとします。それならば、他の神々を主より優先したり、主の御名をみだりに語ることはないでしょう。自分を愛するように隣り人を愛しているなら、殺したり、盗んだり、嘘をついたり、相手のものをむやみにほしがることはないでしょう。愛しているから、そのようなことをしないのです。このようなことをしないための聖書の律法はいりません。それらのことをするのは愛に欠けたことなので、単にそれをしないのです。まず神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛することによって自制するという主の教えに基づいた、聖書の律法からのこの解放こそ、愛の律法の概念全体を簡潔に表現したものなのです。

こうやって詳しく説明しているのは、ある人たちが考えているように、愛の律法とはただセックスに関することだけだという誤解を解こうとしているからです。もちろん、セックスにも関係します。そして、性的な面に関しては後で詳しく説明するつもりです。けれども、愛の律法はセックスに関することだけではありません。愛の律法を実践することについて話す時には、性的な面だけについて話しているのではなく、すべての面について、つまり兄弟姉妹を愛することや、具体的な形で毎日の行動に愛を表すことについて話しているのだという点を、しっかり理解しておいてほしいのです。それは犠牲的な生き方、自分自身を他の人に与えること、助けを必要としている人を助けること、団結の内に生きること、互いの重荷を負い合うことなのです。

主は、愛の律法について次のように語られました。

(イエス:)愛の律法とは、自分のことは考えずに非利己的に他の人を愛することだ。性的なことだけでなく、人生のあらゆる面に浸透するものだ。このような非利己的さと、犠牲的に与え愛する人生において、あなたは他の人を大勢助けられるようになるだけでなく、わたしもあなたに祝福を注げるようになる。わたしは非利己的さと犠牲を祝福するからだ。わたしは謙遜な者を祝福する。そして、自分勝手な道を進むと言ってきかない者からわが祝福の一部を控えるのだ。

それゆえ、愛の律法と呼ばれる非利己的で犠牲的な生き方を選ぶことで、あなたはわたしからの大いなる幸福と、人生に注がれるわが祝福に対して扉を開いたのだ。

わが愛の律法とは、何よりもまずあなたが心と魂と思いをつくしてわたしを愛すること、次に自分を愛するようにあなたの隣り人を愛することである。わが愛が現れる最大の方法は、他の人のために自分の命を捨てることである。命を完全にわたしに与えることで、わたしは人々にわが愛を示すのにそれを使うことができる。(イエスからのメッセージの終わり)

(ママ:)愛の律法は私たちの手本となる原則です。私たちの行動すべての基礎となるべきものなのです。主は「あなたがたは励ましの賜物を学ばなければならない。それはわが愛の律法のとても大きな部分である」と言われました。また、慰め、同情、相手を優先させる、兄弟や姉妹のために余分のことをする、他の人が味わっている苦しみに対する同情や憐れみ、思いやりはどうでしょうか。これらもすべて、愛の律法の大切な部分なのです。

だから、主はファミリーは愛の律法にもっと生きる必要があると言われましたが、それは性的な面についてだけではありませんでした。主は、愛の律法の全体を語っておられたのです。愛と調和の内に一緒に暮らし、隣り人を傷つけず、自分を愛するように隣り人を愛することなど、愛の律法をすべての面に当てはめることについて語っておられたのです!

(イエス:)愛の律法を完全に実践することを通して、「一人の妻」のビジョンが可能になるから。愛の律法を固く信じ、理解せずして、さらに大きな結婚の真理である「一人の妻」のビジョンを信じ、理解することができようか。

現在ファミリーの団結を妨げる障害の多くは、愛の律法と「一人の妻」のビジョンを完全に実践しないことが原因となっている。この面でもっと大きな愛、思いやり、信仰があれば、シングルママやその子供たちももっとよく世話され、性的な自由も増し、ある人たちを仲間外れにしたり、派閥(はばつ)を組んだりすることもなくなるだろう。かたより見ずに愛そう、誰もがホームやファミリーや愛や団結、そして一つの体の一員だと感じられるように助けよう、という意欲がもっとわく。

(ママ:)愛の律法をより完全に実践することは、主が私たち個人の人生やホーム、ファミリー全体に望んでおられる団結を持つために非常に重要なものです。これは、私たちが必ず成長しなければならない分野であり、長年に渡って弱くなっていった分野でもあります。そして、近年において、少なくとも直接はあまり強調してこなかった分野です。けれども、主は今こそ愛の律法とは何かについて、・・・人生のあらゆる面でこれをどのように実行すべきかについて、より理解を深めるべき時だとはっきり語られたのです。

愛の律法とは、私たちのすべての行動の動機となるべきものであり、あらゆる決断や人との関係における基本的な原則となるべきもので、この点を理解しておくことがいかに重要かは、強調してもしきれないぐらいです。 (ML #3201, Vol 25:11–18‚ 20, 24-25‚ 35–38)

「主の愛の律法に生きる、パート2」より

(ママ:)真にイエスが与えられた唯一の律法を完全に実践し、愛と調和の内に共に生き、性的なシェアリングという自由にあずかるには、私達全員がその本質を把握し、愛の律法の真髄を理解することが不可欠です。ここでまたダッドのレターから幾つか引用したいと思います。ダッドが元々これらについてどう言っていたかがそれでわかるでしょう。願わくは、ダッドが愛の律法とその中で許される性的な自由を述べた、愛に満ちた霊を思い出してくれることでしょう。これらのクオートは、シニアティーンの皆さんに特に興味深いことでしょう。皆さんは今「愛の律法」の意味について学びつつあるところだからです。

これらのクオートを読みながら、ダッドがセックスや性的な必要についてだけでなく、人々が抱える他の必要についても言っていることを覚えていて下さい。友情や理解、サポート、尊敬、話を聞いてもらうこと、自分が必要とされ、重要であると感じることの必要などです。どうか次のカウンセルを、主と他の人への奉仕におけるすべての面にあてはめて下さい。・・・

[ダッドはこう書きました:]この革命に携わるどの人にも要求される必須条件が、使徒パウロとすべての使徒達とすべての殉教者とすべての神の偉大な人々を行かせる動機になったのと同じ、駆り立てるような情熱でなければならないことを私はここで強調したい。実際に、人々への抑えがたいほどの憐れみこそが、場所や相手にかかわらず、すべての言動において、あなた達神の子供全員の動機となるべきである。このことは、偉大な熱狂的信者である使徒パウロが、幾つかの有名かつ熱烈な言葉に要約しており、それは、すべての真のクリスチャンがどんな良き行ないをなす際にも、その心からの叫びとなってきた。そしてそのためには死ぬこともいとわないのだ。その言葉とは、「キリストの愛が私達に強く迫っている!」(2コリ5:14)である。

「愛する者たちよ。神がこのように私達を愛して下さったのであるから、私達も互に愛し合うべきである。」「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、私達は神から授かっている。」「神を愛してその戒めを行えば、それによって私達は、神の子たちを愛していることを知るのである。」「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(1ヨハネ4:11,21、1ヨハネ5:2、ヨハネ15:12)

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」「主は、私達のためにいのちを捨てて下さった。それによって、私達は愛ということを知った。それゆえに、私達もまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。…それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ3:16、1ヨハネ3:16、ヨハネ15:13、ヨハネ13:34,35)(ML#151:46-49)

(ママ:)皆さんもわかるように、ダッドが明確に示そうとしていたのは、私達が何をするにも愛の内に歩むべきであること、私達の行動のすべてにおいて愛がその主要な動機であるべきこと、私達の愛が、他の人の必要を満たす助けとなる、愛情深い具体的な行動で表されるべきであることです。ダッドは、必要を抱えた人を見たら、愛の内にその必要を満たすのを助けることは私達の義務であると言っています。そうしないなら、神の愛がどうして私達の内に宿ることが出来ましょうか?(1ヨハネ3:17‚18参照)

ホーム内で、父親のような存在が必要な子供達、あるいは助けが必要なシングルの親、友人が必要な、問題を抱えたティーン、子供達の世話を助けてもらえたら助かる大家族、過労気味で休息が必要な人、世話が必要な病人、友情が必要な寂しい人、それに、そうです、性的なフェローシップが必要な人などを見る時、私達は律法に、つまり愛の律法に縛られており、それについて何かしなければならないのです。ダッドが言ったように、「私達の愛の最大の現れは、ただ単に私達の持ち物を分け合うだけでなく、私達自身を分け合うこと、つまり他の人々への私達の奉仕にある」のです。(ML#607:12)

必要を抱えたその子供や親、あるいは過労気味だったり、病気だったり、孤独で必要を抱えた人を助ける時、あなたは愛の内にその人に自分を与えているのです。つまり、イエスの愛の律法を果たしているということです。病気や過労気味、あるいは子供達の世話で助けが必要だったり、友情や愛情深いセックスが必要なのがあなただったら、誰かに自分の必要に対して助けの手を差し伸べてほしいと思いませんか?「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」(マタイ7:12)

愛する皆さん、愛の律法の真髄は、人からしてほしいと望むことを人にしてあげるほど十分な愛を持つことです。自分が自分の必要を満たす上で助けてほしいと望むように、どんな必要であれ、必要を抱えた人を助けてあげるだけ十分な愛を持ち、それが犠牲であっても、自分の必要よりもまず他の人の必要を考えてあげること、それが愛です。

愛の律法のこの重要な原則を、1日を通して覚えておくようにしましょう。昼食の準備を始めるのが遅れたために、助けが必要な人を見かけたら、数分でもいいから手伝ってあげなさい。それが愛です。証しに行く準備をしていて、予想外の電話がかかってきたためにパートナーが準備できていないなら、腹を立てるのではなく、その人のポスターやトラクトを折ったり、昼食のサンドイッチを作ってあげるのです。それが愛です。

誰かが厳しい戦いを経験していると知ったら、その人のホームの仕事や義務を果たすのを助けることを申し出て、余分なワードタイムを取れるようにしてあげたらどうですか? それが愛です。また誰かが取り残されたように感じていたり、特に近く感じていた人が別のフィールドに移って行ったため、戦いを経験していると知ったら,一緒に散歩したり、音楽を聞いたり、御言葉を読まないかと誘ってあげたらどうですか? それが愛です。

ヘタだけど、バスケットボールが本当に好きな子がいたら、その子に気まずい思いをさせたり、チームの重荷だとか邪魔だと感じさせたりするのではなく、励まし、教え、上手に出来たらほめてあげるよう努めましょう。それが愛です! あなたがどっと疲れていて、早く寝たいと思っている時に、同じくらい疲れている人がディナーディッシュの山を片付けているのを見かけたら、ちょっと助けてあげたらどうですか? それが愛です。

あなたがガールフレンドと時間を過ごす計画をしていたものの、妹がボーイフレンドと別れたばかりで寂しい思いをしているなら、一緒にフェローシップしたり、スナックを食べたり、ミニストリー訓練などをしないかと呼んであげたらいいでしょう。それが愛です。新しいFTTが大好きなのにウォークマンを持っていない弟がいるなら、週末あなたのを貸してあげると言ってあげなさい。それが愛です。

たとえば公園でのピクニックなど、夫婦でファミリーデーに子供達をどこかへ連れて行く計画をしていたら、ホームやその市にいるシングルママと子供達を誘ってはどうですか? その人はきっとそういった助けやフェローシップを大いに感謝し、「一人の妻」のビジョンが実践されているのを見るでしょう。それが愛です。

ダッドが言ったように、「『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。』 自分を愛するように隣り人を愛するならば、その人の立場になって考え、自分がその場にいたらどう感じるか、また何をしてほしいか、何がなされる必要があるかと考えるだろう。アァメン?」(ML#648:53,54)行ないと真実をもって必要を抱えた人に愛を与えること、これこそ愛の律法の真髄です。だからこそ、愛の律法が私達ファミリーの礎石、生活全体の土台なのです。だからこそ、私達が愛の律法を生きることから遠ざかる時、問題を抱えてしまうのです!

イエスの愛の戒めに生きるのは、簡単ではありません。心と魂と思いを尽くして主を愛し、自分を愛するように他の人を愛し、兄弟のために命を捨てること、どれも自己を犠牲にする生き方が要求されます。それはイエスを第一に、次に他の人、そして最後に自分を置くことです。そうすることは自然に反しており、人間性に反しています。このような愛、自分の命を兄弟のために捨てさせるような愛、それは自己を死なすことであり、他の人のために生きることを通じて日々死ぬようにさせますが、それには超自然的な神の愛が必要です。ダッドはこのポイントを次のように明確にしました。

イエスの律法は、はるかに厳しく、守るのがはるかに困難である。—事実、不可能である! もし古い律法を守るのが不可能であるなら、イエスの律法はなおさら不可能である!そのようなわけで主は、「わたしから離れては、あなたがたは何一つ出来ない」(ヨハネ15:5)と言われる。しかし主はまた、私達は、「私達を強くして下さるキリストによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:13)とも言われる。なぜなら、「彼の恵みは、私達に対して十分である。彼の力は私達の弱いところに完全にあらわれる」(2コリ12:9)からである。

あなたが救われて、心の中にイエスを持ち、神の愛の霊を自分の内に持って、自分自身を愛するよりも他の人々を愛するために力と強さを与えてもらわない限り、神の愛の律法を守ることは不可能である。(ML#1968:35‚36)

(ママ:)愛の律法に生きるというのは、いつも犠牲的に他の人のことを考え、彼らに仕えることです。難しい注文ですね! 怠惰で、利己的で、自己中心でいるのはとても簡単です。私達の大半が生まれつきそうでしょう。私達の第一の反応は普通、まず自分のこと、自分が何をほしいか、何が自分を幸せにしてくれるかを考えることです。でも主に助けを求めて、純粋に努力すれば、私達にも新しい習慣や反応を身につけることができます。時間はかかっても、それが私達をもっと愛と思いやりに満ちた犠牲的な人になるのを助けてくれるでしょう。(ML #3202, GN805:3-4‚ 6-8, 22-31, 39–42)

「憲章の責任」より

(ピーター:)これは、あなたの日々の生活と他の人との関係に適用されるべき責任です。あなたがたは他の人たちに対して愛情深くなり、気づかい、調和を持って共に働けるように努力する、すなわち真剣に取り組むことになっています。これをわかりやすく実行すると、その人が好きであろうとなかろうと、同意しようとしまいと、若かろうと年長であろうと、性格が合おうと合うまいと、ホームの人たちと愛情深く調和の内に暮らすべきだということです。 

憲章メンバーであるあなたは、ホームにいる人たちを自分を愛するように愛し、お互いに最善を尽くして愛をもって振る舞うことが求められています。それは、彼らの批判をしない、ゴシップをしない、彼らに向かって怒鳴ったりせず、愛するように格別の努力をするということです。自分を振り返り、ホームの人たちや他のファミリー・メンバーとどう交わっているか顧みて下さい。愛をもって接していますか? 親切にしていますか? 引き上げようとしていますか、それとも引き下ろしていますか? ダッドが言ったように、一緒に住んでいる人を好きになれなくても、常に神の愛で愛することを求められています。礼儀と尊敬と親切さをもって、礼儀正しく接するように求められます。(ML #3197, GN 803:89, 90)

「1998年のゴール」より

(ピーター:)心と魂と思いと力をつくして主を愛することと、自分を愛するように他の人を愛することは、最も大切な二つの戒めです(マルコ12:30,31参照)。主はまた、私達に自分を愛するように隣人を愛するようにとも命じられました。主は、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることをすべての者のが認めるであろう」と言われたのです。(ヨハネ13:35)

愛は、ファミリーの生命のもとです。愛こそ土台、かなめ石です。ファミリーは、愛によって知られているべきです。私達の互いへの愛は、一人一人を優しく包む、柔らかで暖かい手触りの良い毛布のようなものであるべきです。その中で私達は慰めや安心感、平安、理解を見い出すのです。

残念ながら、そしてこう言わざるを得ないのをすまなく思いますが、一般的にファミリーが悲しくも基準に達していない一つの分野とは、素朴で無条件の兄弟愛です。つまり「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え」、「決して失望させない」、「子供じみたことを捨てる」ような愛です。(1コリ13) 私が話しているのは、理解し、ゆるし、かたよりなく愛するために助けの手を差し出すような愛のことです。愛しにくいものも愛し、人の失敗や欠点を見逃し、相手の内に主を見て、一人一人をイエスとファミリーに心と人生を捧げた人、受け入れられ、養われ、世話を受け、愛されるにふさわしい人として見る愛のことです。

主が前にも告げられたように、私達は互いに対するイエスになれます。(ML#3032:76-95、GN664) 私達は、主の愛を現すことができます。私達が示す思いやり、同情、アフェクション、忍耐、信仰、理解、愛は、まさにその人が進み続け、戦い、勝利を勝ち取るための信仰や勇気、力を与えるものとなるかもしれません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」と言われました。(マタイ25:40) というわけで、ママと私は皆さん一人一人に尋ねたいと思います。あなたは、兄弟に対するイエスとなっていますか? イエスにするように、あなたはこれらの最も小さい者にしていますか?主が望んでおられるような主の愛の見本になっていますか?

自分の時間を与え、耳を傾け、心やベッド、人生を他の人に開きましょう。ゆるすに早く、忘れるに早くなるのです。ベストを尽くして自分の所有物を分け合い、自分の子供のように他の人の子供を愛し、兄弟を見守る者となるようにしましょう。主の愛を素晴らしく伝える、単純なアフェクションを控えないようにしましょう。心をつくして良い手本となり、誰かがもたれかかり、泣くことのできるしっかりした肩となってあげ、主の無条件の愛の模範となるのです。結論を急いだり、不公平に裁くことなく、苦労している人を良いように解釈してあげるのです。互いの重荷を負い合って、愛の律法を実践しましょう!(ML #3160, GN765:77-81, 83)

「戦い続けよ!-確信対妥協、パート6」より

(イエス:)愛の律法の性的な面に生きることは、今でも任意だ。これはファミリーにいるための要求事項でもなく、性的に分け合わなければファミリーのメンバーシップを失うということもない。けれども、先のメッセージで述べたように、愛の律法全体に生きることは、ファミリーにとって、わたしが召しているすべてのものになるための鍵である。

「あなたの望み通りにわたしの心に働きかけて下さい」と言う者は、愛の律法をあますところなく生きることにあまり苦労しない。来るべき日々において、備えられ、準備が整っているのは、そういう者たちだ。(ML #3366, GN 969:169, 171)

「直言、パート1あなたは愛の律法を実践できるだけ強いだろうか?」より

あなたは愛の律法を実践できるだけ強いだろうか?

(ママ:)特に「犠牲的」でないデートの場合、愛の律法の性的な部分を実践し、結婚しているのに他の人とデートするのは眉をひそめるべきことであり、「ダサイ」ことだという概念を広めている人たちがいます。メイトに貞節を守っていないとか、夫婦関係がうまくいっていない、あるいはメイトに「満足」していない兆候のいずれかだと言うのです。

あるSGAが最近、このように書いてきました。

私が知っている大勢のYA/SGA(既婚者だけでなく)は、自分たちが愛の律法の性的な面を実践しないことをかなり自慢しています。皆が皆、そういう考え方をしていると言うのではありませんが、ファミリーで私が知っているYAとSGAのほとんどがそうです。愛の律法を余すところなく実践している若い夫婦もきっといると思いますが、私自身は誰も知りません。こんな態度を取っている人たちが大勢います。独身なら誰と寝てもかまわないが、結婚しているか、誰かと恋愛関係にあるなら、自分の配偶者やパートナー以外の人と寝るのは、名誉やプライドに関わる問題だというのです。

神の見解:

(イエス:)愛の律法のある部分を実践していないのを誇りにするとは、全く馬鹿げている。わたしからすれば、愛の律法に則って、関係者全員の同意の下に、配偶者以外の人と夫婦が性的に分け合うというのは、深い成熟度を示している。夫婦が性的な面で助けの手を差し伸べ、他の人に与え、他の人から受け取っているというのは、弱さではなく強さのしるしだ。

わたしはあなたがた夫婦に、愛の律法に従っていることを誇りに思ってほしい。わたしはあなたに、お互いに忠誠を保ち、ますます深く愛し合いつつ、他の人に対して自分たちの人生を開くという関係を築くことをチャレンジとしてほしい。愛の律法の性的な面を実践することで、結婚から何かが取り去られるわけではない。この性的な開放によって、もっとしっかり結ばれ合い、愛の律法を実践するという従順と犠牲ゆえに、今までにないほどメイトを愛し、感謝の気持ちを表しなさい。

この排他的な態度、配偶者のみへの貞節が夫婦円満の証拠であるという態度は、世俗のインプットがわが子供たちに影響を与え、妨げていることの、完ぺきな実例だ。中には、疑わしい映画を見たり、疑わしい小説を読んだりしても悪い夢を見ないので、体制のインプットから影響を受けていないと考える者がいる。けれども、この排他的で閉鎖的な態度が理想的であるという意見に賛成しているか、少しでも同意しているのであれば、あなたは世俗のインプットによってかなり悪影響を受けている可能性が十分ある。推薦されているか、無害に思える映画や小説などでさえも、革命的なクリスチャンの人生に反する微妙な嘘や間違った態度で満ちている場合がある。だから、気をつけなさい!

また、たとえ体制メディアのインプットからこの間違った態度を身につけたわけでなくとも、この態度自体が、あなたがたの多くの行動や態度や会話によって、あらゆる階級に浸透し、広まっている。あなたにはその意図はなかったかもしれないが、実際、自分が従わないことを自慢し、「自分には合わない」と言って何かを脇へ押しやる時、あなたは実際、わが言葉と真理を中傷している。

利己的な方法は楽な方法だ。「貞節」に関する世俗の概念は、ある者たちにとって、愛の律法のこの部分を軽視するための素晴らしい言い訳になるかもしれないが、それでもこれは不従順であり、わたしを不快にしており、あなたはなお、夫婦関係や恋愛関係をはぐくむ大切で素晴らしい方法を逃している。愛の律法をどの程度実践するかは、あなた自身の信仰によるものだが、愛の律法の実践を怠っていることを実際に自慢するとは、滑稽であると同時に非常に悲しいことだ。だから、この怠惰で無意味な体制のプライドの態度の陰に隠れている腰抜けになるのをやめて、人々に手を伸ばし始めなさい。

あなたの人間関係を高めるために、愛の律法を使いなさい。与えることが、その秘訣だ。もっとセックスがほしいという自分の欲を満たすためだけや、自分の大切な人をなおざりにしてしまうほど他の人と時間を過ごすこと、または祈り深くないか、隠れてセックスをするために愛の律法を使うのではなく、ひたすら愛し、ひたすら与えるために使うのだ! この馬鹿げた体制の態度を取り除き、愛の律法を本来の方法で実践するだけの強さと勇気があるなら、あなたは途方もない益を刈り取り、人間関係において真新しい幸福感をもたらすだろう。(ML #3499‚ GN 1086:89-96)

一人の妻のビジョンの原則に基づいて、自分のホームや他のホームにいるメンバーや子供たちを扱う。

「1998年のゴール」より

(イエス:)第一世代の多くもまた、過去の経験によって苦々しい思いを抱くようになった。または、完全に愛の律法に生きることに対し、怠慢になり、無関心になってしまった。彼らはチャレンジを受ける必要がある。愛の律法を完全に実践することを通して、「一人の妻」のビジョンが可能になるからだ。愛の律法を堅く信じ、理解せずして、さらに大きな結婚の真理である「一人の妻」のビジョンを信じ、理解することができようか。だから、御言葉の約束を思い起こさせること、指導、励まし、強力なチャレンジが両世代に注がれて、再び心と思いに、愛の律法への信仰と、「一人の妻」のビジョンを実践したいという願いを燃え立たせることが必要だ。

現在ファミリーの団結を妨げる障害の多くは、愛の律法と「一人の妻」のビジョンを完全に実践しないことが原因となっている。この面でもっと大きな愛、思いやり、信仰があれば、シングルママやその子供達ももっとよく世話され、性的な自由も増し、ある人達を仲間外れにしたり、派閥(はばつ)を組んだりすることも少なくなるだろう。かたより見ずに愛そう、誰もがホームやファミリーや愛や団結、そして一つのからだの一員だと感じられるように助けよう、という意欲がもっとわく。 (ML #3160, GN765:171, 172)

「主の愛の律法に生きる、パート11」より

(ダッド:)より大きな結婚を第一に置くとは、自分の家族とのつながりを軽んじなければならないという意味ではなく、より大きな結婚を正しく重視するという意味である。結婚というまとまりを捨てなければならないのではなく、結婚のより大きな概念を取り入れなければならないということである。自分の家族のまわりに円を描いて他の人を閉め出すのではなく、他の人たちも中に入れる円を描くということだ。たとえば、自分の子供たちへの愛を減らすのではなく、他の人の子供たちを自分の腕の中、心の中、人生の中に入れ、実の子を愛するのと同じぐらい愛そうとすることである。他の人たちを夫婦関係や家族と同じレベルにまで引き上げることである。愛や理解、同情、気づかいなど自分の家族に自然と感じる感情と同じレベルにまで引き上げるのだ。

これは複雑な概念だ。主は私たちに自分を愛するように他の者を愛してほしいからだ。主は私達が、彼らの必要を思いやり、時間や力、愛、祈りを与え、私たちのメイト全員が十分世話をされ、できるだけ幸せで満たされていることを確かめるために自分に出来ることをするのを望んでおられる。その一方、主はわざと、明確に、その御心の内に、あなたが自分の家族や、妻あるいはメイト、それに自分の子供たちに対してより強い自然な感情を抱くようにしておられる。私たちには皆、何らかの個人的なタッチが人生に必要なことを知っておられるので、そうされるのだ。子供たちは個人的な関心や愛、自分が誰かに属していて、自分の場所があると感じる必要がある。彼らには家族というまとまりから得られる安心感や慰めや暖かさが必要だ。

だから、個人の家族と、より大きな家族の両方に場所があるのだ。それぞれに目的があり、一方を愛し、同時に他方をおろそかにしないでいることが可能である。

もちろん、ほとんどの人は自分の家族やメイトや子供たちに対してより深い愛を抱く傾向がある。私たちの優先順序は普通、自分のメイトや子供中心だ。人間の利己的さや独立心のゆえだけでなく、自分の家族を世話し、守るという神が与えられた願いや重荷のゆえでもある。

自分のメイトや子供たちのことをもっと気にかけるのは、とても自然で理解できることだ。彼らが必要が満たされ、幸せで、愛されていると感じ、満足し、チャレンジを感じているかを気にかけるのだ。メイトや子供たちをこのように愛するのは良いことだ。それは夫や妻、父親、母親としての義務の一つである。

この世の人々も自分たちの家族のことを気にかける。だが、他の人達を自分の家族と同じぐらい愛そうと努め、他の人達の必要や、幸福や安心感、満足感、またチャレンジを感じているかどうかについて気づかおうとするには、超自然的なイエスの愛、神の奇跡的な恵みを要する。

自分の妻や自分の子供たちに対してするのと同じように、シングルマザーのことや彼女の子供たちの必要を気づかうには超自然的なイエスの愛を要する。シングルマザーやその子供たちを霊の内で自分の妻や子供たちとして見るには、霊の内での超自然的なビジョンを要する。独身の兄弟や姉妹への憐れみで動かされ、手を伸ばし、泣くための肩であろうと、祈りであろうと、コミュニケーションやラブメイキングの時間であろうと、必要なものをあげるには神の超自然的な愛が必要だ。

このすべてには、御霊のわざが必要とされる。あなた達はそれを自分の力ですることはできない。あなた達は御霊の内に、信仰の内に、愛の内に、犠牲の内に強くなくてはならない。それゆえ、この「一人の妻」の原則や、より大きな結婚の概念を十分理解しているファミリー・メンバーはごく少数しかいないのだ。このような犠牲を払いたいと望む者はあまりいないからだ。そして、私が話している犠牲とは、自分の家族を捨てたり、軽んじたり、ちゃんと扱わないことではなく、あなた達の幕屋を広げ、より多くの愛と気づかいを与え、他の人たちを中に入れ、彼らを家族の一員と感じさせることである。

ファミリーが最近、これほどバラバラになり、利己的になってしまったのは悲しいことだ。夫婦はとても閉鎖的で、孤独な人が沢山いる。大勢が一人ぼっちに感じている。家族やチームや何かのまとまりに属していたいと思うのは、神から授かった自然な願望である。そうしたまとまりの中では、自分の場所があり、自分が何かの影響力を持っており、個人として望まれ、必要とされており、自分が意義ある貢献をしていると感じるのだ。

だから、従業員全員に、自分は重要で必要とされていて、ビジネス成功のカギを握る大切な存在だと感じさせる会社は大抵、非常に繁盛しているのだ。従業員は献身的に一生懸命働き、喜んで犠牲を払う。全員が一丸となっており、会社に属していると感じることで、やる気がわいてくるのだ。そうしたことは、単なる金や昇進や栄光よりも、ずっとやる気を起こさせる。それは神が与えられた願望であり、主が人の心に置かれたものだからだ。

ファミリーのホーム内でも、自分はどこにも属していないと感じる人々がいるのは悲しいことだ。彼らは少し外部者のように感じ、何かが欠けているように感じている。ホームにいて、自分の仕事をし、役目を果たしているが、誰が一体自分のことを心から気づかっているのかと思っている。確かに彼らがいるといないとではホームスケジュールに違いをもたらすし、証しや子供の訓練やJJTや資金調達の面で助けている。だが、チームやからだや結婚の、絶対不可欠な一員だとは感じていないのだ。

だから、ホームからホームへと移動するケースが多いのだろう。人々は長い間一緒にいたり、頑張ってパイオニアをして、主のために強く永続する仕事を育み、築き上げることをしない。彼らはいつもあちこち、このホームから別のホームへ、またはこのフィールドから別のフィールドへと移動しているのだ。

彼らが本当に求めているのは、自分がどこかに属していると感じることだと私は思う。彼らは自分の場所や、近く感じる人を見つけたいのだ。自分が受け入れられ、必要とされ、望まれる場所にいたいのだ。自分が去るなら、何かが大きく欠けたように感じられ、個人として自分のことを恋しく思ってくれる場所にいたいのだ。ただのスケジュールの穴埋めとか資金調達や家の掃除を手伝う人がいなくなったと思われるだけでなく、自分の特別な賜物、才能、個性、ユーモアのセンス、長所、さらには弱さ、それに性格やおかしな所をみなが恋しく思ってくれるような場所にである。

より大きな家族を優先するというのは、できる限りの愛をふるい起こして兄弟を愛するという意味である! 神の恵みによって、自分の兄弟やメイト、チームワーカー、仕事仲間、友だち、シングルマザー、独身の兄弟姉妹、すべての子供たちにできる限りの愛や関心、気づかい、感謝の気持ちを与えるということだ。

愛を奮い起こそうとできる限りのことをしていると感じる時こそ、キリストの愛が自分に迫るままにしなければならないことを忘れてはならない! それはすべて主の愛の奇跡でなければならない! 神の超自然的な愛は、誰でも愛するに十分な愛で、それこそ、愛の律法を生きる上で必要なものだ。主の超自然的な愛で人を愛すること、これこそ何よりも大切なことである。けれども、ただ踏み出して、従いさえするなら、主が必要な愛を与えて下さるのがわかるだろう。

それこそ、主が望まれていることだ。主はあなた達を通して人々を愛したいのである。主にはあなたの手しか手がなく、あなたの腕しか腕がなく、あなたの口しか主の愛と励ましの言葉を語る口がない。たった今、それはあなた達にとって不可能に思えるが、ただ神にあなたを通して人々を愛するチャンスを与えさえするなら、神は残りをして下さる。主はあなたができないことをして下さる。主の愛があなたに迫り、決してできないと思っていたような方法で他の人を愛するよう動かして下さるだろう。主を第一に置き、主の愛でファミリーを愛するにつれ、主はあなたに恵みを注いで下さる。他の人たちを愛するに十分な恵みである。主の超自然的な愛が、あなたを通して働くようになるからだ。

あなた達一人一人が、自分の家族を愛するのと同じぐらい他の人を愛せるよう主に求めなくてはならない。それこそ「一人の妻」の霊であり、より大きな結婚を最初に置いていることである。つまり、喜んで個人の閉鎖的な関係を広げ、他の人に手をのばし、他の人を中に入れるために自分たちのプライベートな時間の一部を犠牲にすること、あるいは、自分の子供を個人的に指導したり、読みを教えたり、理科のプロジェクトをしたり、ストーリーを読んであげたり、新しい言語を学ぶのを助けてあげたり、ただ楽しい時間を過ごし、フェローシップしたり、ゲットアウトをする時に、他の人の子供も含めることで心と思いと時間を開くことである。

個人的で閉鎖的になるのはとても簡単だ。人は自然とそうなるものだ。与え、オープンになり、非利己的になり、自分の家族同様に他の人を愛するには超自然的な何かが必要だ。しかし、それは不可能ではない! 主にはできる! あなた達はただその努力をし、喜んで試してみたらいいのだ。そして何よりも、超自然的な恵みと愛を主に求めなければならない。

たとえば、あなたが幼い子供たちのいる若い夫婦で、ファミリーデーにピクニックに行き、少しクワイエットタイムやコミュニケーションを取り、忙しい一週間の後で子供たちに個人的な関心を与えたいと思っているとしよう。けれども、ホームにいるシングルマザーと子供たちもあなたと一緒にピクニックに行きたいかもしれないと、主があなたの心に告げるのだ。彼女は一人ぼっちに感じており、子供たちも他の子供たちと遊びたがっている。

このような場合、主はある意味で、あなたの家族やさらにはあなたの願いを二番目の場所に置くよう求めていると言える。あなたが人生と時間と関心を必要を抱えた人に開くことができるようにだ。けれども、わかるかい。それは自分の家族をないがしろにすることにはならない。より閉鎖的な態度になりがちだった前よりも他の人を愛していることになるのだ! あなたは他の人を中に入れる円を描くことによって、シングルマザーと子供たちを自分の家族同様に愛そうとベストを尽くしているのだ。

別の例を挙げよう。夫婦のあなた達が早めにベッドに入って、ラブメイキングをしようと思っていたとする。けれども仕事仲間の一人が孤独の激しい試練を抱えていて、とても近かった人のことを恋しがっているのがわかったとする。そこで夫婦の時間を過ごす代わりに、この仕事仲間に一緒にワードタイムやフェローシップや祈りの時間を取らないかと誘ってあげるのだ。または散歩に出かけたり、この寂しい人とフェローシップやラブメイキングをするためにメイトを送ってあげさえする。これも、自分の望みや家族を二番目の場所に置くことの例である。だからといってメイトに対するあなたの愛が減ったわけではなく、寂しい人を愛そうとし、普通は自分たちで楽しんだり、前には他の人を交えずにプライベートに楽しんでいた時間や関心や愛の一部をその人に与えようとしているということだ。

それはあなたがたが共に他の人に人生を開き、まわりにいる人の心の嘆きを聞いてあげるということだ。でも、自分の家族への愛を減らさなければならないということではない。もちろん他の人に手を伸ばす時は、自分の家族や結婚の純粋な必要やそれに与えるべき時間の投資との間で良きバランスを保たなければならない。当然、自分の家族との時間も必要だし、いつも他の人を誘わなければならないように感じる必要はない。

けれども、私の言葉を信じなさい。保証するが、他の人の必要を見始め、外に目を向け、まわりの人の必要にもっと敏感になるにつれ、他の人の必要を満たすために犠牲にする時間が実際には犠牲ではないことがわかるだろう。まわりの人の必要、つまりあなたほど持っていない人、困っている人の必要を満たそうとしたからといって、結婚や家族に害を及ぼすことはないとわかる。犠牲になるのではなく、与えることのゆえに主の祝福と報酬を受けるとわかるのだ。主の愛の律法には大きな益があること、また与えることによって失うことはないことを見いだすのだ!

それこそ私がしたことだ。私はいつも他の人たちに自分のホームを開き、腕を広げた。人々を中に入れる円を描いたのだ! だからこそ、今日(こんにち)のファミリーがある。いつだって、あと一人受け入れる余裕はある! 人々に手を伸ばし、彼らを愛とフェローシップの中に入れる余裕は必ずある。祈って、主に導いてもらいなさい。祈って、どうバランスを取ればよいか主に尋ねなさい。そうすれば、主ははっきりと示して下さるだろう。

当然ながら、すべての人の必要を同じように満たすことはできない。大切なのは、誰に手を伸ばすよう主が導かれるかにオープンであることだ! だからこそ、主は私たちにファミリーを与えられた! 私たちは一つの体である! 全員の必要が満たされているべきだし、誰もが何でも主が導かれる方法や能力に応じて、皆の必要が満たされるように自分の部分を果たすべきである。まわりの人に手を伸ばすよう主が心に語られるなら、耳を傾け、主の導きに従うのが賢明だ。試してみて、あなたの人生や他の人の人生にもたらされる大きな益を発見しなさい。

だからわかるように、より大きな結婚を最初に置くとは、個人の結婚をあまり気づかわなくなったり、メイトや子供たちが傷つくままにしてしまうという意味ではない。それは他の人を、よりよく世話されるレベルにまで上げ、彼らの必要を満たすために時には喜んで自分の願いや個人の好みを二の次にするということである。

簡単じゃないのはわかるが、これこそ「一人の妻」に生きることだ。そして、あなたの努力を必ず主は祝福され、報われると確信できる。すぐに起こらないかもしれず、あなたが期待しているような形ではないかもしれないが、何らかの方法で、どうにかして主は報いて下さる。与えることによって、つまり、愛する人やメイトや子供たちや近い人に与えるのと同じ愛や気づかいや関心を他の人たちに与えることによって、失うことは決してないことを、主は示して下さるだろう。

(ダッド:)「一人の妻」のビジョンを実際的な面で応用したいと考えるとき、ふつうの夫婦だったら何をするか、ちょっと考えてみなさい。愛情深くなり、思いやりと親切心を持ち、支えや慰めとなり、世話し、分け合いなどするだろう。さて、それをより大きな結婚におけるメイト達にもできるだけ実行してみるのだ。ダビデの子供達のより大きな結婚をできる限り実行する方法は、生活のあらゆる面の至る所にある。

夫婦関係に必要な事全てを考え、それに取り組みなさい。やってみなさい! 結婚生活をうまくいかせるには時間がかかるという事を覚えておくことも、助けになる。一日目から全てが理想的になることは、必ずしも期待できない。投資し、取り組まなくてはならない。しかし、どこからでも、とにかく始めなくてはならない。大切な事は共に成長し、進歩を遂げ、日々夫婦関係に取り組む事だ。結婚生活を成功させるにはたくさんの手間がかかる。しかし、その成果は、十分価値がある! その成果とは、強いきずなだ。切れることのない強い結びつきだ。

このより大きな結婚においても、主はあなた達に夫婦愛を実行してほしいのだ。結婚は結合以外の何であろうか? それは共に合わさること、一つになることである。だから実際的な面で全員がこの結婚を適用し始められる最善の方法は、現実的で実際的な真の夫婦愛を実践し、それに生きること、そして、一つの「ファミリー」、一人の妻として共に行うことだ。

お互いを一人の人間として見なさい。他の人を、自分が恋する人、あなたが必要とするメイト、その人なしに生きられない自分の一部として見なさい。なぜなら、一人では何もできないからだ。各自が、他の人のことを、何か貢献できる人とみるのだ。(1コリ12:12-25を参照。)

諸君、覚えておいてほしい。「一人の妻」のビジョンの実践がうまくいき、成功することを望むのなら、結婚とは、ぴったりの人を見つけようとしたり、他の人を彼らがなるべき人に変えようとすることではなく、自分自身がぴったりの人になることだと。それが成功のカギだ。あなた達一人一人が今、これをうまくいかせたいと心に堅く決意しているなら、また、あなた達が他の事をやめて、祈り、自分は主の助けと主の恵みによって、そのぴったりの人になろうと努力するとコミットメントするなら、勝利はそこにある! あなた達一人一人がこれを決意し、心と思いと霊の内で、それをしたい、やってみたい、成功させるために力の限りを尽くしたいと、いったん決意するなら、あとのことは全て主がして下さる! あなた達が自分にできることをしたら、あとは神がして下さる! (ML #3211‚ GN814:49-66, 70-78, 100‚ 101, 103‚ 104, 125)

「直言、パート2皆、私たちの子供」より

(ママ:)子供がいる夫婦、特に数人または大勢子供がいて、ホームの他のメンバーから助けを必要としている夫婦に対して、それは親の問題であり、「あなたが赤ちゃんを造ったのだから、あなたが世話をしなくては。私は赤ちゃんを産むことを選ばなかったのだから、どうしてあなたを助けなくてはいけないの?」というようなことを言って、親が何とかすべきだという態度を取っている人たちがいます。

神の見解:

(イエス:)この考え方は間違っており、ファミリーをむしばむ! まず、赤ん坊を造ったのはわたしだ。何ヶ月にも渡って、毎日何度もファックしても、赤ん坊を産むのがわが意思でないなら、妊娠することはない。わたしが赤ん坊を与えるのであり、わたしが送った子供は皆、ファミリーへのわが手からの贈り物だ。

ファミリーと、その他のクリスチャン界とを分かつ一定の特質がある。わたしはこの終わりの時のために、ダビデの言葉という独特なメッセージを与えた。このラディカルな言葉には、ダビデを終わりの時の預言者として信じることから、わたしが与えた性的自由、霊の世界とのつながり、来世から、それもわたしから直接聞くだけでなく、数多くの霊のヘルパーから聞くことに至るまで、多くの側面がある。あなたはわたしの親密な花嫁であり、わたしはあなたに愛の律法に生きるという任務を与えた。愛の律法を実行する上で極めて不可欠な部分とは、一人の妻として行動することだ。このすべてが、あなたをその他の世界から切り離している。

わたしはあなたにわが言葉の肉を与えた。この肉は興味深いフィクション小説であるかのように読むのではなく、それに生き、従い、実践するためのものだ。一人の妻のビジョンは、わたしがあなたに与えた独特な教義の核心だ。あなたはわたしと結婚しており、互いに結婚している。ファミリーの子供たちはあなたたち全員のものであり、それが血を分けた子供であろうがなかろうが、ファミリーの子供を世話する責任はないと考える者は誰でも、これに関するわが思いを思っていない。

小さな家族単位は必要であり、それが適切な場に保たれ、わたしやお互いとのより大きな結婚の邪魔にならない限りは、全体的な計画の一部となる。わたしは集団結婚を支持する。つまり、わたしはより大きなファミリー、ファミリー全体を優先するという意味だ。つまり、ダビデの子全員が持つ、子供に対する態度は「彼らは皆、私たちの子供」であるべきなのだ。

この世では、大勢のクリスチャンが個人の家族単位を非常に高くあがめている。わたしやわが仕事よりもずっと高く。自分の血を分けた子供のいないファミリー・メンバーの中にも、独身生活や独立性をあがめていないか、心を探ってみるべき者がいる。自分を捨て、誠実で犠牲的な愛の内に生きているかどうか、自問しなさい。実際に子供たちと時間を過ごし、教え訓練するのを助けることであろうが、誰か他の人がそのようにできるよう、何らかの面でホームを助けることであろうが、あなたは、ホームやエリアにいる子供たちを助けるために、わたしが呼びかけていることを何でもしているか? 祈りによって子供たちを支えているか? 何でも自分にできる方法で、彼らや親を支えているか?

それとも、あなたは子供たちを助けるためにできる事をするのではなく、自分の興味や利己的な願いを第一に考えることで、自分自身を優先しているのか? 自分の時間を利己的に使い、助けを必要とする子供たちの世話を怠っているなら、あなたは、わたしがダビデの子らに与えた一人の妻ビジョンの根底を揺るがしている。あなたはきっと、一人の妻ビジョンは良い教義だと信じているだろうが、皆が忙しく、それを実践する必要が出てきた時にこそ、それが試される。あなたはそれを実践するぐらい利他的だろうか?

ファミリーの子供は皆、あなたの子供だ。もちろん、血を分けた親には直接責任がある。だが、わたしはあなたがたを一人の妻、一つのファミリーとした。そして、あなたがたは皆、子供たちも含め、お互いに対して責任がある。

子供がいない独身者やカップルにとって、さらには2人ぐらいの子供がいる小さな家族さえも、「この子供たちはあなたの子供だから、私には関係ない」という考え方を持つことは容認できない。それは、一人の妻ビジョンにかみ合わない。このような共同生活を想像してみなさい。そうすれば、要点が飲み込めるだろう。それは、まるで妻が、「今日は、ホーム全員のためにディナーを料理しないわ。私の夫と子供の分だけ料理する」と言っているようなものだ。または、夫が、「今日はホームのためにプロビジョンしない。自分の家族のためだけにする」と言っているようなものだ。あるいは、「あなたのアポのためには運転しません。自分で何とかすればいいでしょう」と。あなたがた全員がお互いと結婚している。これは持ちつ持たれつ、共に生き、愛し、お互い助け合う関係なのだ。そして、わたしがあなたがたの内に見たいのは、それなのだ。子供の世話も例外ではない。

「彼らはあなたの子供だから、私には関係ない」という態度は、根絶されるべきだ。その解決策は、まずファミリーの子供たちはあなたがた全員のものであると受け入れることから始めなくてはならない。ひざまずいて、あなたに迫るわが愛を求めて祈りなさい。使徒行伝2章44-45節に生き始めるのを助ける団結と調和、利他的さ、愛の鍵の力を呼び求めなさい。つまり、「信者たちは皆一緒にいて、一切のものを共有にし・・・」だ。これには子供も含まれる。信仰と譲渡、ダビデの言葉への従順の鍵を要求しなさい。兄弟を見守る者になりなさい。わが妻、一人の妻になりなさい。わたしやこのファミリーと結婚している妻に。わが言葉とレターの中に、それが詳細に渡って書かれている。これらの言葉を行う者になりなさい。

ホーム全体で集まり、ホームにいる子供の世話に関して一人の妻のビジョンを始めるための実践的なステップをわたしに求めなさい。それぞれの状況は異なり、必要も異なるが、わたしはあなたの状況に合った具体的な答えを与えるだろう。親に過度のこだわりがあり、他の人が子供の世話に関わるのが難しい場合、このビジョンを成功させるために、親の方がわが言葉を読み、働きかけなくてはならないだろう。

だが、あなたがたのほとんどにとって、克服しなければならない最初の基本的なハードルは、子供に対する考え方だ。いったん、独身であろうが、子供のいないカップルであろうが、自分にはホームにいる子供を世話する責任があることを受け入れるなら、すべてがうまくいく。個人的に、次はどのステップを踏むべきか、また、今日、この時点でその責任を担うためにわたしが何を望んでいるかを尋ねるなら、わたしはあなたが知る必要のあるすべてのことを告げるだろう。わたしはその主題に関するわが書かれた言葉にあなたを導き、どこから始めるかを示し、進歩のための新鮮なインスピレーションと日々の導きを与えるだろう。御国の鍵によって、あなたの愛は人間の能力をはるかに超え、あなたの団結は強まり、子供をわが道に沿って育てていくなら、あなたの心の家は現実のものになるだろう。(以上、メッセージ)(ML #3500, GN 1087:38-49)

体の弱いメンバー、大家族、子供がいる独身の親をホームに受け入れることを進んで考慮し、オープンになり、それについて祈り、主の導きに従って行動する。

「前進あるのみ」より

(ピーター:)ホームに加わるか、他の人をホームに呼ぶ際、あるいはホームを閉じるか、もう一つのホームと合併する際には、このファミリー改革の第一のゴールは、勝利チームを築くことであるのを念頭に置くべきです。つまり、新しいホームや新しいホーム・メンバーを、思慮深く、そして祈り深く選ぶべきだということです。なぜなら、あなたはその人たちとチームを作るからです。共に働き、共に並んで戦い、勝つチームです。

最低限のホーム・サイズは18才以上の大人の数で判断されますが、これは、大家族やシングルママをホームに迎えることを思いとどまらせるためのものではありません。多くの場合、勝利チームには大家族やシングルの親が含まれるでしょう。うまくいく活動や良い見本の弟子のホームにするには、調和の取れたチームが必要です。それには、母親、父親、若者、プロビジョナー、ジェッツやティーンのシェパード、ウィットネサー、ティーチャー、チャイルドケア人員、その他多くが含まれます。ダッドが常日頃から言っていたように、あらゆる年齢の子供がいることは最大のテスティモニーである場合がよくあります。何よりの証拠であり、素晴らしい証しなのです。そして子供は、実り豊かな弟子のホームにとって、はかり知れないほど貴重な存在にもなりえます。

子供は証しの機会を提供するだけでなく、一人の妻のビジョンに生きることは、私たちの見本と主への奉仕の基本的原則です。これは、ダッドが私たちに教えてくれた最も重要な霊の概念であり、私たちを団結したファミリーにする、愛情深く利他的な動機を失わずにいることは、極めて重要です。私たちは一人の妻であり、子供を世話し、育て、訓練するという集団責任を負っています。つまり、私たちの貴い子供を主の薫陶と訓戒の内に育てられる、愛に満ちたホーム、また支えとなる環境を、大家族やシングルの親に提供するのです。

ホームの扉を開いて大家族やシングルの親を受け入れることによって示す犠牲的な愛と思いやりは、あなたに主の祝福をもたらすばかりか、これはあなたのテスティモニーの大切な一部でもあります。ですから、勝利チームを作る際には、どうかこれを覚えていて下さい。あなたには、家族、シングルの親、子供、シングルが必要です。私たちは、あらゆるタイプの人々からなるファミリーであり、任務を果たすためにお互いを必要としているのです! (ML #3479‚ GN 1067:116-119)

「再生:子供たちへの愛」より

(ママ:)知っていましたか? 子供というものは、たとえ大勢いても、宣教ユニットとしてのホームの有効性を大いに高めます。このメッセージを読んでみて下さい。

(イエス:)あなたがた、わが花嫁の中には、子供が大勢いると身動きが取れなくなると思っている人たちがいるが、実際、それはあなたの見方による。実り豊かなファミリーのホームとなるとは、どういう意味だろう? 完全に自立しているということだろうか? あるいは、自分の計画やビジョンを邪魔されずに利己的に達成できる能力のことだろうか? 大人集団が自分たちの好きなようにするということだろうか? あるいは、わたしの羊を養うホームのことだろうか? 答えはわかっているね。

子供たちはわたしにとって途方もなく大切な存在だ。子供の訓練は、魂獲得と弟子獲得、アクティベーテッド教会の拡大、貧しい人たちに食べ物や衣服を与えることなどと全く同じくらい重要だ。それについて最後に真剣に考えたのはいつだっただろうか? チャイルドケアを、余分の重荷と見なす人がいる。皿洗いや家賃のための資金集め、車のオイルチェンジなどと同じ、宣教師や弟子としての第一の仕事の邪魔になるものとして見るのだ。だが、見落としていることがある。子供の訓練は極めて大切なミニストリーだ。そして、ホーム・メンバーがもう少し広い考え方を持てるなら、かなりの数の「矢筒」、つまり子供がいる大家族を受け入れることで、宣教ユニットとしてのホームの効果が大いに増すとわかるだろう。

あなたは能力の限りを尽くしてわたしに仕えたいだろうか? 本当に自分のすべてを捧げて、自分のホームをできる限り効果的で有用なものとしたいだろうか? そのための最も手っ取り早い方法の一つとは、あなたの所で、うまく行く効果的なチャイルドケアの状態を打ち立てることだ。

確かに子供は大変な仕事だ。だが、それは言い訳に過ぎない。大変な仕事というのは、あなたにとってたいして問題にならないと思う。それが問題だったら、あなたは宣教師や弟子の奉仕に身を捧げなかっただろうから。あなたがたは誰でも、実際、子供を周りに置いておき、少なくともたまに子供を助けるだけでも、シェパディングや証しの技能を伸ばすことができる。子供たちはまた、他のどんなミニストリーでも得られない種の喜びをホームにもたらす。これはただ、正しい態度を持ち、たいがいのファミリー・ホームはある程度の数の子供がいなければ何かが欠けていると気づくかどうかの問題だ。

あなたのホームが、細心の注意を要する国にあるか、特殊なサービス・ホームで、わたしが是認した正当な理由で子供をあまり受け入れられない特殊なホームである場合には、残念だが、大勢の子供がいることに付き物の恩恵を幾つか逃すことになる。その場合、子供がいないという損失に耐えなくてはならず、それはわたしが求めている犠牲だ。だが、子供を受け入れる機会があるのにそれほど子供がいないとか、一人もいないのであれば、自分の方から大家族や、ホームのチャイルドケア・ミニストリーに貢献できるプロのティーチャーを見つけなさい。何をぐずぐずしているのか?

追伸:家が小さくて、これ以上子供を受け入れられないのだろうか? それなら外に行って新しい家を探しなさい! 広い庭とプールのついた家、そして近くに遊び場があればなお良いではないか!(ML #3491, GN 1075:44-50)

「実り豊かなチームを作る」より

(ママ:)愛するファミリーの皆さん、あなたたちのホームやチームのこの面を良く検討してみることを、こうやってもう一度勧めます。主はこの方法によって、あなたの境界線を広げてほしいのではないかということを、真剣に考えて下さい。ホームをもっと完全なものとしてくれる大家族を見つけなさい。彼らを招き入れなさい! 調和がよく取れていて有能な主の宣教チームとなる上で、これはきわめて重要な要素です。

(ダッド:)ところでみんな、忘れてはいけない。子持ちの家族はあなたがたのホームにとって最も素晴らしい最大のプラスになることがある。バランスの取れた勝利チームとするのにまさに必要だったものとなりうる! だから家族を避けてはいけない。それが大家族でもだ。家族の多くが大家族だ。そんなことをすると結局はあなたが失敗者となる! そして私たちは愛によって知られるべきだ。私たちは「愛の家族」であり、「もう宿は一杯です」という利己的な人の集まりのファミリーではないことを覚えているだろうか。

あなたは、アウトリーチを助けてくれる人が必要なのであって、他の家族はそれほど必要ないと言って反論するかもしれない。さてあなたは、子供というものは、あなたが彼らを正しく訓練し、彼らにそれをさせるなら、証しに最善かつ最大の効果を及ぼすものとなりうることがわかるだろう。私たちを軌道に載せたのも私たちの子供たちだった。あなたたちの子供たちだって、あなたたちを軌道に乗せることができる! 彼らに証しすることや歌うこと、演じること、あなたの仕事を助ける事を教えるのだ。子供たちはあなたの証しを強めだろう。最も頑なな心であっても感動させ、それがなかったら開かなかっただろう扉を開ける。あなたの努力を増幅する。しかもあなたの重荷になったり、引き留めたりしない。

確かに子供は重労働だ。だがもしかしたら、あなたは、それに伴う仕事のことばかり考えて、彼らがどれだけ、あなたやあなたのホーム生活、あなたの見本、調和の取れた仕事、証しやテスティモニー、そして喜びや幸せや祝福の源として、祝福となりうるかをあまり深く考えていないのではないだろうか。彼らを正しく訓練し、つぎ込むべきものを全てつぎ込み、外に出してあなたを助けさせるなら、そうなるのだ。子供は何よりの証明であり、私たちの生き方がものすごくうまくいくことを示す証拠であり、主からの相続財産であり、未来の希望である! 子供の数が多すぎると思うなら、主の約束を思い出しなさい。「壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。」(詩篇127:4,5)ハレルヤ!

年配の人たちを追い払わないでほしい。多少健康上の問題があっても、それで彼らはお払い箱、役立たず、もうだめということではないのだから。今でも主に仕える重荷と願いを持っているなら、その道を見いだすだろう! 地上での私の晩年を見てみなさい。私はしばしば病気になり、伏せっていた。何度も主の所へ帰郷しそうになった。だが私は進み続け、主は私を進み続けさせて下さった。あなたはそれが私であっても、体が弱いと言って門前払いするのか? ママはどうだろう。ママは何年も目が痛くてほとんど開けられず、ほとんどの場合暗い部屋で生活し、仕事をし、階段の上り下りは誰かに抱きかかえられないとできず、体が不自由であるも同然だった。ママはホーム内でほとんど何もできないからと言って、やはり門前払いするのだろうか?

あなたは、「だけどダッド、あなたやママは違う! あなただったら門前払いするわけがない」と言うのか。さて、自分のホームに誰を加えるかを決断する時、年配者であれ体の弱い人であれ、ファミリーのメンバーがドアを叩くなら、その人は私とママとファミリーに全人生を捧げた人であることを思い出しなさい。彼らはすべてをファミリーと主のためになげうった。ほとんどの人は大きな犠牲を払いつつも、もう十年以上そうしてきた。何か不足しているところがあると思うかもしれないが、彼らはあなたがたのホームを完全にし、真に愛と充実感に満ちたホームにするのにまさに必要としていたものを持っているかもしれない。

主が言われた、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」という言葉を肝に銘じなさい。この訓戒には続きがあって、それを考えてみるのも助けになる。それはオープンでも乗り気でもなかった者たちについてだ。彼らはこう言った。「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか?」 主は答えて言った。「これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。」(マタイ25:40,44-45) これは私たち全員が覚えておくと良い原理だ。 (ML #3496/OOGN 13:6‚ 22-27)

4. ダビデの言葉に生きる。御言葉を最優先し、御言葉に基づいたホームの決断をし、主の最高の御心を熱心に求め、弟子として最前線に留まるために必要な犠牲を払うことによって、ニューワインへの従順の霊がホームに現れている。

GNに書かれた、実際面と霊的面のカウンセルに生きる。

「憲章の責任」より

憲章メンバーは以下のことをしなければならない:

D.御言葉に従って生きる。日々の生活で、レターに書かれている霊的、実際的カウンセルを当てはめるように努める。

  

E.聖書とレターと他のファミリー出版物、すなわち古い宝と新しい宝の両方を読むこと。

(ピーター:)この2つの状項は非常に大切です。特に、ダッドの後継者で終わりの時の女預言者としてママを受け入れることと、ファミリーの基本的信条を信じることと組み合わさると、さらに重要です。

私たちファミリーは御言葉の上に築かれています。私たちの生き方全てが、御言葉に根ざしています。私たちの生き方、すなわち証しをし、お互いを愛し、主に命を捧げ、調和の内に共に生き働くように動機づけているのは、御言葉です。私たちは、神が何かを言われたら、神は本気だと信じます! そして、それを実行したいのです! 御言葉を聞くだけではなく、行う者になるよう試みています。私たちは神の言葉を真剣に受け取り、最善を尽くしてそれに生きようとします。

主は、私たちに御言葉をこれほども豊かに注ぎ続けているのは、私たちがそれを信じ、それを実行に移すからであると、何度も言われました。ファミリーが、御言葉をただの情報や興味の対象として見、ただ「耳を楽しませる」ためだけに読み、自分たちの生き方において実行しないような時が来れば、疑いもなく主は今注ぎ出している御言葉の祝福を控えるようになるでしょう。主は命の水の流れを抑えられ、私たちは干上がり、無味乾燥した教会に成り下がるでしょう。そのようなことが起きないように、神が私たちを助けられますように!

主は私たちに御言葉の肉をゆだねておられますが、同時に、私たちがそれを信じ、受け入れて実行に移し、それを生き方の一部とするよう求めています。だからこそ私たちにそれを与えられるのです。主は、次の預言の抜粋のように言われました。

(イエス:)自分の受け継いだもの、すなわち神の肉という財産をしっかりと保っていなさい。それを恥じてはならない。わたしはそれを首尾一貫して注ぎ続け、新しいはかりと強さの内にそれを注ぎ続ける。あなたがたは、私の強い言葉を受け入れた者、それと共に成長した者、それに従った者、それを実行した者、それにゆえに苦しんだ者、それによって強く成長した者だからだ。だからこそ、わたしは引き続きあなたがたに注ぎ出そう。このような財産を受け継いだ者は他にいない。そして喜んでそれを注ぎ出し、それに生き、そのために立ち上がり、そのために迫害を受け、あざけられることもいとわなかった者たち、進んで「神がそう言ったので、わたしは信じる」と言う者たちは他にいない。

受け入れ、信じ、神の言葉に生きる信仰のゆえに受けるあなたがたの天国での報酬は大きい。わたしはわが子供たちであるあなたがたをいたく喜ぶ。あなたがたは喜んで心を尽くしてわたしを愛したからである。舌や言葉だけではなく、行いと犠牲をもって喜んで愛した。そして、あなたへのわたしの愛を信じ、信頼してわたしが行く所どこでも喜んで従った。

あなたがたの女王を通してわたしが与える言葉を受け取りなさい。ダビデを通して与えた言葉を受け取ったように。そうすれば、あなたがたは栄え、強くなる。そして、全ての人が見るたいまつの光として、最先端を行き、活発で物議をかもし、革命的でい続けることができる!

(ピーター:)神の御言葉を信じる憲章メンバーである私たちは、毎日忠実にそれを読み、読んだことを生き方に反映させることが求められます。主が私たちに語っていることを真に信じるならば、主の言われたことを当てはめない理由があるでしょうか? 主が私たちに注がれている御言葉は、私たちの生き方に影響を及ぼしているべきです。読んでそこにあるカウンセルに従うべきです。

もちろん、非常にたくさんの御言葉が注がれていることはわかります。全員が、主が言われたことのほんの細かなこと全部を私たちの生き方の全ての面で当てはめるのは不可能です。また、レターの内あるものは、特定のフィールドや状況に向けて書かれていて、他の場所では全く同じように当てはめることはできません。霊に導かれなくてはならないのです。出版された一言一句を「律法の文字」的に厳守するようには、私たちは求めていません。

しかし、憲章メンバーとして、私たちは神の御言葉を生き方に当てはめるように求められています。主の導きに従い、新旧両方の御言葉を信じ受け入れることを求められています。その導きと指示に従うべきです。私たちが決断を下す上でそれを用いるべきです。それは、私たちの人生に正しい基準を設け、私たちが進むよう主が望む方角を示すビジョンを与える助けとなっているべきです。そして、主が導かれる所ならどこでも従っていくという意欲を、そこから得るべきです。

主がある主題に関して御言葉を注ぎ出され、非常に明確に御心を示されたなら、私たちは主に従う者として、御言葉に書いてあることを行い、人生において最善を尽くして実践することを強く望むべきです。たとえば、非利己的に生きるよう最善を尽くし、自分より他人のことをもっと重点的に考え、他の人に対しもっと愛情深くアフェクションを示すようになり、愛と礼儀と親切さをもって行動すべきだと主がはっきり言われたなら、その時はそのように試みるべきです。主は、それが主の御心だと言われたからです。また、ある種の活動は私たちの霊的生活に有害であり、敵の妨害であると言われるなら、私たちは主に従ってそれを避けるべきです。

あなたが御言葉を軽視し、信じもせず、受け入れもせず、自分の生き方に当てはめるよう努力もせず、それ読んだり実行することを避け、さらにひどいことに、それに露骨に反抗し、反対するなら、どうしてファミリーにいるのですか? あなたは弟子であるはずです。それは「教えに従う者たち」という意味です。ファミリー・メンバーであるなら、主の御言葉の教えに従う責任があります。力の及ぶ限りそれに生きる責任があります。(ML #3197, GN 803:77-88)

「来るべき迫害?-確信対妥協、パート1」より

(ダッド:)御言葉を聞くだけの者にならず、行う者にもなりなさい! それが鍵だ。あなたたちの中にはわだちの中に入り込み、すっかり落ち着いてしまい、自分自身を奮い立たせることなど興味がない者たちがいる。あなたたちは御言葉を聞くだけの者であり、行う者ではない。革命家となることをやめてしまい、教会のようになり始めている。戦いに疲れ、戦いを止めてしまったのだ。

(ママ:)教会のようになってきている人たちがいるという、ダッドの言葉に注意して下さい。あなた達は眠り込んでいます。あなた達は無気力です。もしかしたらそれは、あなた達が教会の中にいたいからかもしれません。もしかしたら私たちの信条より彼らの信条の方が好きなのかもしれません。その場合、あなたは何百もの教会から選ぶことができ、きっとここにいるより幸せになれることでしょう。将来へと進むにつれ、私たちは教会体制とはますます異なってくるからです。 (ML #3361, GN 957:88, 94)

「分裂の危険!-確信対妥協、パート2」より

(ママ:) ・・・多くの誠実な羊たちがアクティべーテッド・プログラムやフォローアップによって勝ち取られるでしょう。そして、彼らは主に仕え、世界を勝ち取るのを助けたいと願うでしょう。そして私たちは、彼らがCMホームやFMホームで正しくないものを見たり、CMの基準とはほど遠くて、FMホームになるべきか、さらにはファミリーからすっかり出てしまうべきCMホームがあることによって、彼らをつまずかせることはできません。羊にとって何という失望でしょう!

私たちが本当に御言葉に生きるようにすることによって、加わってくる多くの働き人のために備えるのは、私たちの責任です。それによって、彼らがホームを訪ねて来る時には、御言葉を信じる人々、世界を勝ち取りたいという願いを示し、実際証しや聖書クラスやフォローアップに時間を投じている人々を見ることになるのです。私たちは彼らに、宣教師、弟子、互いに愛し合い、和合して暮らしている人たちを見てほしいのです。世俗のすべての人たちとほとんど変わらないような、一つだけの家族ではなくて!

あなたがファミリーの「友人」になりたいなら、話は別です。それも結構ですし、あなたはファミリーとフェローシップをし、サポートして、幾らかの出版物などを受け取ることができます。でも、チャーター・メンバーであることを期待しているなら、そのように生きなくてはなりません。そしてそれは、御言葉を信じ、証しし、他の人と一緒に暮らすことなどを意味します。

初期の頃からの私たちのポリシーは、御言葉を行う人、ただの説教ではなく、見本となることです。今でもそう生きていると、心から言えますか? それとも、少しばかり証しして、幾らか資金調達をして、その他は体制のみんなと同じような生活をして暮らしているのですか? それが望みなら、それでも大丈夫です。そうしたらいいでしょう。ただし、CMファミリー内でではありません! (ML #3362, GN 958:16-18, 20)

「あなたは神のものを盗んでいるのか?-確信対妥協、パート8」より

(イエス:) ・・・人々が無気力になり、霊の内に鈍くなり、妥協し、わたしから離れるなら、それは彼らの人生の単なる一部だけとか、わたしとの歩みのある一定の面だけというのではなく、普通は全体的、全面的影響となるからだ。

その理由は、不従順というのは普通、わたしへの恐れがないことの結果だからである。わたしへの恐れの内にしっかり歩んでいる時には、従うための動機があり、良心もズキッと痛みやすく、あなたは毎日非常に数多くの良い決断、正しい決断をする。犠牲を払うという決断、肉を服従させ、正しい見本になり、自分を否定してわたしと他の人たちを第一に置くという決断だ。

だが、不従順を繰り返すことによって霊の内に鈍くなると、いつまでも何の罰も受けずにすむと思い始める。万事今まで通り続くという態度や、どんな行動を取っても事の成り行きにはさして関係ないし、違いももたらさないという態度を取り始める。人生の良いことはすべて、わが祝福があるかどうかにかかっており、また、わが祝福があるかどうかは、あなたがわたしとわたしの言葉に従っているかどうかにかかっているという、人生の大きな秘密をあなたは見失う。

その真理を見失うと、あなたは真の知恵を見失う。そうなると、肉の思いと盲目さ、うぬぼれが人生に入り込み、あなたは当然の結果などなく、何でもやりたいようにやることができ、損失や罰、困難、問題、病気、事故という形になって自分に戻ってくることなど決してないと感じるようになって、人生の他の多くの面も下降していく。

人々は、自分の問題を、間違った決断や妥協や不従順と関連づけないことがよくある。彼らはどういうわけか、それがただの偶然であるか、因果関係の作用などないと考える。自分がしたことや誘発させたこととは何の関連もつながりもない、無作為の出来事がめまぐるしく起こる中にいるだけだと感じている。それは馬鹿げているが、それが自分には言い開きの責任があると感じず、自分の人生や行動の責任を取らないことの典型的な例だ。

人が従わずにいる期間が長ければ長いほど、この問題が人生に広まっていく。人が小さな罪や悪い行いを「やりおおせられる」と感じれば感じるほど、悪事をすることに心が定まっていく。そしてすぐに、ますます妥協へと沈んで行き、ついには結局、以前は「触れてはならない」ものであった十分の一税などに関しても妥協するようになる。(ML #3461, GN 1046:123-128)

「論点、パート10」より

(イエス:)わが言葉やGNの中でわたしが与えた指導を実行する一番の時は、それを読んだ時である。わたしが「わが指導を今、実施しなさい」とか「今、従いなさい」「この新しい武器を今、使い始めなさい」と言う時、それを読んでいるあなたに、あなたの心に直接語っているのである。・・・

霊の原則は、わたしは従順を祝福するということだ。個人的にまたはGNを通してわたしが示すことに、あなたがすぐに従い、実行するなら、わたしは祝福する。わたしが導く方向にすぐに従い、動き始める者はわが祝福のより大きな部分を受け取る。それは、あなたの反応が少しにぶいなら、わが祝福を全く受け取れないという意味ではない。あなたは豊かに受け取るが、すぐに従った者ほど多くの祝福を受け取るようにはならないだろう。

わが言葉を実行するのがもっと簡単になるというのも、すぐに従うことの益の一部だ。また、何であれ、あなたがすぐに実施したことについては、それに対する益を受け取る。それが何であろうと、つまり新しい武器の使い方を学ぶことであろうが、霊的な進歩を遂げることであろうが、NWOを克服することであろうが、すぐに始めるなら、それは簡単になるだろう。多くのわが霊の原則と同様、長く待てば待つほど、実施するのが難しくなる。 (ML #3397, GN 990:67, 69, 70)

「完全なる所有」より

(イエス:) 即座に従う者がより大きな祝福を受け取るというのは、わが霊の原則である。そして、この場合もしかりである。後で従う者は、この賜物、この報酬の一部を受け取るが、最大の報酬、最大のものは、ためらうことなくわたしに従う者に送られる。後で従う者はすべてを失うわけではないが、わたしがその場で与えたかったものを得損ねてしまう。それがわが霊の原則である。わたしは即座の従順を祝福し、それに報いる。そして、最初にわたしが呼んだ時に従わないなら何を得損ねるかを、あなたは知るよしもない。 (ML #3376, GN 973:57)

「弱さの革命-パート3」より

(イエス:) 敵に打撃を与え続けるには、敵が嘘や悪感情や悪い思考をもって洪水のようにあなたを襲おうとする時に、その場でわたしの元に来なければならない。だから愛する人よ、不意の侵入にあってわたしに波長を合わせ続け、わが明確な命令を受け取りなさい。成功の鍵は、わたしの命令を聞くだけでなく、指示に最後まで従い、行動に移し、即座に、明確に、命令に従うことだ。これをするには、ただわたしの天のホットライン、祈りと預言のトランシーバーに波長を合わせ続け、悪魔に一発食らわせる方法についての、わたしからのその場の指示と命令を得ることだけだ。(ML #3219, GN 821:104)

憲章の最低限だけを行ってすまそうとし、「最低限しかしない者」になってはいけない。相対評価をせずに、最後までやり通し、できるだけしっかりとニューワインに従うべき。

「2004年 新年のチャレンジ!」より

(ピーター:)ファミリーの状態について主に聞くと、主は、私たちの思考様式に見極めがたい態度が入り込み、それがニューワインに完全に生きるのを妨げていると示されました。故意にそうしている人はいないという事は私もママもわかっていますが、憲章の「最低限」しかしない事を許容する事は、御言葉への従順と全体のレベルを低下させました。これは、独立的態度、利己的態度、世俗的な事、カウンセルへの反抗、シェパディングを快く受け入れない事など、それ以外の罪や短所も表面化させるという結果になりました。COであれ、VS、ホーム・シェパードのレベルであれ、ファミリー・リーダーシップには個人の生活に立ち入る権利はないという態度が広まっています。そしてこれはファミリー・リーダーシップが、あまり懲罰や必要なシェパディングをしたがらなかったという事実と相まって、ほとんどのフィールドの基準は主が意図したものよりはるかに低いものとなりました。状況は悪化し、非常に低い「最低限」の従順が標準的となるに至りました。そしてそのゆえに、憲章の解釈とニューワインの適用法はゆがんでしまいました。これは正されるべきです。

残念ながら、多くのホームの弟子としてのレベルに関しては、相対評価をする傾向がありました。ホームの全体的な弟子としてのレベルが非常に低くなったので、相対評価をする風潮が強まりました。だからそのエリアのいわゆる「最高レベル」のホームも、実は本当の100点満点でやっているわけではありません。でもそれらのホームがそのエリアで最高レベルと見なされていたので、それが100点と見なされ、それ以外のホームはそれに基づいて判断されています。つまり、弟子としての50点のレベルで行動しているホームが、CMホームとして受け入れられているという事です。どうしてでしょうか? それは、私たちが御言葉や憲章の基準に従ってではなく、相対評価をし、エリア内の各ホームとの比較によって判断してきたからです。私たちは、「仲間同志で互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである」(2コリ10:12)。

これによって、ホーム間で、自分たちは申し分なくやっているという誤解がずっと続きました。御言葉と比較するならあまりにひどい状態のホームもあるのにです。結局、彼らは大丈夫なはずだ、だってリーダーシップはそのレベルを容認しているから、というわけです。最終的に、もはや、自分たちが基準以下の弟子であり、御言葉に背いて生きているという事を理解さえできません。もう、御言葉に従うのが必要だとも感じていません。少なくとも100%のレベルで従う必要はないと思っています。そこから、主が何かレターで述べる時に、主は誇張しているに違いないとか、主はその御言葉に従うよう本気で言っているわけではないとか、この妥協した御言葉への従順は容認されるばかりか、御言葉への完全なる服従や従順であるという、間違った考え方が出てくるのです。

私たちは妥協の原因を除去しなくてはなりません。・・・互いに比べ合う相対評価をやめなくてはなりません。CMファミリーはこれから完全なる弟子として生きるのだと決意を固めなくてはなりません。

あなたは印刷された御言葉の基準を固守するよう求められます。憲章、それも憲章の最低限の解釈ではなく、憲章が本当に意味するところとその真意を固守するよう求められます。ですから、憲章の説明と「憲章の責任」のGN、それに、よくある憲章の誤った解釈について説明してある「確信対妥協」シリーズを読むといいでしょう。また、ニューワインを固守する事も求められます。これからは憲章だけを基に弟子の資質があるかどうかを判断する事はありません。だから、先ほど言ったいわゆる「最低限」について理解する事が大切です。それでは不十分なのです。

(イエス:)愛する人たち、物事は変わりつつある。そしてこれからわがシェパードたちは脂身と赤身の違いを判断するだろう。ニューワインが出たらそれに生きる事が求められ、憲章はそれをさらに反映するようになるだろう。わたしはオペレーティング・システムを、やり方を、操作方法をアップグレードしている。必ずしも基準を上げているのではない。基準の意味の深さはずっと以前から同じだ。その霊の基準を基に実際面での規則が築かれていたのだ。だが、今、霊の基準が実施され、それを遵守しているかどうかを判断するシステムが、以下の霊的基準にアップグレードされる。

あなたはニューワインに生きているだろうか? あなたの霊的状態はニューワインに提示されている弟子の霊的基準にかなっているだろうか? あなたは霊の内で弟子だろうか、それとも最低限を保っているだけなのだろうか? あなたの霊はどこに宿っているのだろう? あなたの霊はどこにあるのだろう? あなたの霊は、賛美の内にわたしと共にいるのだろうか、それとも不平不満、苦い根、嫉妬、ゴシップ、ねたみ、憎しみ、怒り、不和の内に悪魔のレベルに下がっているのだろうか? そこで判断される。

あなたはだいたいにおいて、憲章に沿って、目に見える最低限の要求事項は果たしたが、憲章の霊はまだ果たしていない。それは、愛の霊、従順の霊、わたしへの献身の霊、つまり弟子の霊だ。わたしは霊的な方角に向かっている。わたしは霊である。わたしは霊の世界で物事を操作している。そして、あなたの霊が成長し成熟し、霊的に成熟して、最低限の基準に従うためにしなくてはならない事をするだけではなく、わが目から見て正しい事をする大人として、わたしの霊と一体になるのを助けようとしている。

わたしは律法の文字だけではなく、律法の霊に生きる方法を教えたい。地上のシェパードや、ルールを破り基準を維持しない場合に受ける罰を恐れるという理由より、むしろ、あなたの良き羊飼いであるわたしを愛し、恐れるゆえに、従い、正しい事をするよう教えたい。

わたしはがらくたを取り除き、核心に戻ろうとしている。つまりあなたがたの霊的基準だ。そして、わが子供であるあなたがた全員は、あなた自身のためにも、わたしのためにも、それに従って判断されるだろう。憲章はもはや目に見える最低限をまとめたものではなく、何よりもまず維持される霊的基準であり、沈みたくない者たちは全員、今、この基準までレベルアップしなくてはならない。その基準は今までずっとそこにあった。それは変わっていない。それは同じ基準だ。ただ、わが子らは今、ステップを踏み、成長する段階に達したのだ。そして今、悪魔は自分の陣営をかき立て、武器を準備したので、あなたが霊的基準まで成長する事は差し迫った優先事項だ。

(イエス:)弟子であることとは、生き方だ。自分の人生で何をするかだ。たくさんのルールではない。「最低限」でもない。わたしが教えた弟子の資質とは、すべてを与えること、すべてを捨てること、わたしと、あなたが仕えている人たちに対して何一つ差し控えないことだ。わたしは、「最低限をやっていればなんとかパスする」とは言わなかった。そうしたい人は、ファミリー・メンバーや友人にはなれるが、たとえ「憲章による最低限」の律法の文字を守っていたとしても、その人は弟子ではない。そういう人たちは、律法の目的、最低限がある理由を理解していない。理解していたなら、それがあるのは弟子としての見本が下がりに下がるのを許すためではないと気づくはずだ。

わたしはこれから人々に、弟子としての真の要求事項を要求する。それは何千年もの間聖書にはっきりと明確に述べられていた。人々は、代価が高くつきすぎるので、聖書であれレターであれ、その特定の部分を自分の生き方に適用したがらなかっただけだ。だが、弟子である事には代価がかかり、これからファミリー全体がその代価を払い始めるか、さもなければメンバーシップの別のレベルに移行しなくてはならない。

(ダッド:)弟子である事とは、御言葉に生きる事、完全な御言葉に生きる事であって、単に、憲章に明記された規則や規定の最低限を満たそうとする事ではない。

憲章は素晴らしい手引き書だ。誤解しないでほしい。そしてもし完全に憲章に生きていたなら、最大限の従順を果たしていたなら、その人たちは確かに完全な弟子だ! だがここで私が言っているのは、一部の人たちが持っている、憲章の最低限に生きるという傾向だ。要求されているルールや責任に関して最後まで行くのではなく、チャーター・メンバーでいるために守らなくてはならないと知っている具体的なルールの最低限の基準に生きているのだ。前者は実際にもっと大切なのだが、守らなくても罰されないと思われている。

たとえば、たいていの人は、破門にならないように、性的行動のガイドラインに従う事に関してはかなり注意深く勤勉だと思う。それは良い! だが、チャーター・メンバーの責任に従う事について同じだけ注意深く勤勉な人はどれだけいるだろう? あなたは「べからず」と同じだけ「すべし」を重視し、毎日それを実行しようとするだろうか?

憲章には、「べからず」がたくさんあり、多数のルールや規則があって、それを守るのは良い事だ。だが、「すべし」、つまりその霊的、実際的原則を日々の生活に適用する事によって、御言葉に沿って生きる事も、同じだけ大切である事を覚えている必要がある。弟子である事は、ルールや規則に従う以上のものだ。全ての面で御言葉に生き、心と魂と思いを尽くして主を愛し、愛の律法が命じているように、自分を愛するように隣人を愛する事だ。

弟子は、憲章に記述された最低限の要求事項だけでなく、御言葉全てに生きる。弟子とは、共同生活をしてホームサイズ・ルールや投票のルール、経済に関するルール、セックスに関するガイドラインを守り、破門されないように気を付けている事によってのみ、主を愛し、隣人を愛するのではない。それらをするのは良い事だが、イエスが言われたように、他をおろそかにしない事も同じだけ大切だ!

主は律法学者やパリサイ人に何と言っただろうか? 主は、当時の憲章である律法を守る事によって、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている、と言われた。つまり、信仰と愛を無視し、主への奉仕はルールや儀式に盲目的に従うだけになり、ついには、裏庭からはっかを摘んだら、その10%を取っておいて十分の一税を払うまでになった。

そこでイエスがやってきて、最も大切ないましめとルールである愛を思い出させた!心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するようにと! 主はそのルールに生きられた。そして、あなたもそのルールに生きるなら、他の全てのルールや規則を守る事になるばかりか、それをはるかに超えるようになる。

だからファミリー、私は今日、それを思い出させに来た。弟子とは、憲章のルールの最低限だけでなく、御言葉の全てに生きているという事実をだ。あなたは御言葉全部に生きなくてはならない!

それもまた、私がファミリーを始めた理由だった。私は御言葉に生きていない人たち、規則である十戒の最低限だけを守って、他の御言葉を無視する人たちにうんざりしたのだ。ああ、より献身した教会信者だったなら、十戒のルールや規則ももっと守り、特定の食べ物を避けたり、何かの面で世俗から分離せよというパウロの訓戒も守ろうとしただろうが、彼らは御言葉全部を守ったわけではなかった。御言葉全部に従ったのではなかった。御言葉に生きていなかった! ほとんどの者たちは、旧約聖書のクリスチャンですらなかった。ただの十戒のクリスチャンだった!

私は急進的な者たちの一団とファミリーを始めた。そして、彼らは自分たちが弟子に、つまり全ての面で御言葉に従う者になれると信じていた! ファミリーは御言葉の上に築かれた。御言葉に、御言葉全てに生きた。そして、それはニュースとなった。初代教会の時代以来、過去2000年間、それをした人たちはほとんどいなかったからだ。そして、私たちが御言葉に生きると、主はますます御言葉を下さった。私たちがそれに従い、御言葉を行う者となると知っておられたからだ。御言葉を行う事をやめ始めると、主は御言葉やその他多くの物の供給を削減し始めるだろう。

だから、ただの十戒のクリスチャンや、憲章のクリスチャンになってはいけない。フルタイムの弟子になりなさい! 御言葉を読んでそれを脇に置いてはいけない。毎日それに生きなさい! 御言葉から養われるのは良い事だし、主はそれを感謝しておられるが、同時に、御言葉を行動に移す必要もある。

「イエスはあなたにとってどれだけの価値があるのか?」をよく読んで、御言葉に生きることについて何度書かれているかを数えてみなさい。「オブスタコンを完全抹消せよ」をよく読めば、オブスタコンの目的はあなたが御言葉に生きるのを妨げることであるのがわかるだろう。「力に集中しなさい」をよく読めば、その力に集中してそれを使うには、御言葉に生きなくてはならないのがわかるだろう。「確信対妥協」シリーズをよく読めば、それが御言葉に生きることについてであるのがわかるだろう。御言葉のすべてにだ! 最近出たたくさんのレターや、過去に出た何百というレターをよく読めば、何かの面で、御言葉に生きることについて書かれてあるのがわかるだろう! ひたすら御言葉に生きることは、あなたをチャーター・メンバーにするばかりか、弟子に、また「教えに従う者」にする!

御言葉を信じ、それに従うこと以上に大切なことはない。イエスは御言葉なのだから。御言葉を愛し、それに従うことで、あなたは主を愛し、主に従っている。御言葉に生きる分だけ、御言葉を愛しているのだ。イエスが言われたことをする分だけ、イエスを信じているのだ。だから、ただ信じて最低限に従うだけではいけない! 星を目指し、究極をねらい、神のために最後まで行きなさい!

真理の言葉を正しく教え、ただ御言葉を読むだけでなく、従う、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい! ただの学者ではなく、働き人だ!

近い将来のCMファミリーは、フルタイムで110%の、献身した、従順で、完全に専心した弟子になるでしょう。それ以外の誰も、CMの肩書きを持つ事はありません。最小限しかしない人ではなく、最大限を行う人のファミリーになります。ただ聞くだけの人ではなく、行う人のファミリーになります。全ての人が誇れるファミリーになります。証しし、勝ち取り、御言葉を宣べ伝えるという仕事をするだけでなく、最大限に御言葉に生きるファミリーとなるでしょう。これらのチェンジは今、始まりつつあります。断じて船は沈ませません。船を忘却と妥協の海に沈ませはしません。神が望まれているファミリーにするため、全力を振り絞って戦うか、試みながら死ぬか、どちらかです。あなたは私たちと運命を共にしますか? その気がありますか?(ML #3468‚ GN 1054:20, 88, 89, 110, 141, 146, 147, 150, 151, 156‚ 170, 172, 180-193, 206)

ホームとして、・・・新しい武器の使用に関して進歩する。

「弱さの革命-パート1」より

(イエス:)戦いは激しさを増しており、あなたはもはや過去にあった古風な武器では生き残れない。ただ古い戦争の武器を使って敵に攻撃し、退散させようとするのは、もはや十分ではない。古い武器も戦争においてそれなりの役割があるが、今日の戦争においては、古い武器だけでは敵を退散させることはできない。しかしあなたがたは戦いに敗れてはいない。わたしはまさにこの目的のために、わが子らの武器の兵器庫をアップグレードしたからだ。

敵は、今までになくねばり強く戦うだろう。あなたをやめさせ、長子の権をさげすませ、冠を捨てさせ、あなたの人生におけるわが計画と目的を捨てさせようと、試み続けるだろう。だから今日の武器の使い方をマスターしない限り、あなたには敵をやっつけるだけの力がない。だから、これら御霊の新しい武器の使い方を身につけ、熟練しておくことが極めて重要なのだ。それなしには、あなたは敵の新しくあくどい猛襲を打ち負かすことはできない。

ファミリーが毎日、前線に近づき、戦いのさ中に入れば入るほど、新しい武器を身につけている者だけが生き残るだろう。生き残るだけでなく、至る所で敵をうち負かしつつ、勝利をもって戦い続けるだろう。

これらの武器は自分自身の力や、賢さ、賜物、才能の武器ではなく、それらはわが武器であり、あなたはわたしに委ねることによってその武器をふるうのだ。わたしに委ねることによってのみ、わが霊と力があなたを覆い、あなたをわたしのものとし、敵の攻撃に抵抗するのに必要な防御力を供給する。そして、敵に対抗し、攻撃し、打ち負かすためのパワーと勇気とイニシアチブと見識が与えられるのだ。

新しい武器なしでやって行けると思い、古い伝統を守ろうとする者は、世界を洗い流している悪の大波に強く立ち向かい、しがみつくための力が尽きることに気づくだろう。

わたしに頼る者、たとえ理解できなくてもわが言葉に忠実であり続け、信仰によってわたしの新しい武器を受け入れる者は、わが言葉と新しい武器はうまく行き、それによって敵を敗ることができると知っている。信仰こそ、世に勝たしめる勝利である。つまりそれは、わが言葉への信仰、わが約束への信仰、わたしが言ったことはすべて実現し、御霊の新しい武器を受け入れ、実践し、使い方に熟達するというあなたの信仰だ。 (ML #3218_1, GN 819:63-66‚ 68‚ 69)

「弱さの革命-パート2」より

(イエス:)あなたに何よりも、何にもまさって学んでほしいのは、賛美や預言やわたしを親密で絶えず愛することといった新しい武器を使わないなら、最後までやり遂げることはできないということだ。

自分が使いたい気分になった時だけ、新しい武器を弱々しく使うことはできないよ。例えば、そういう気分になった時や差し迫った状況になった時だけわたしから聞いたり、思い出した時にだけ賛美したり、親密にわたしを愛するのを後回しにしたりすることだ。あなたがこのすべてをやろうとしているのは知っているが、それらを使うことにおいて、それほど必死になっていない。

これらのことをするなら、あなたの人生はもっと充実し、豊かで祝福されるようになる。いつでも悪魔に新しい武器をぶっ放して、悪魔をぶっ飛ばす用意ができているから、悪魔とその攻撃に対して戦うための力もずっとあるだろう。(ML #3218_2‚ GN 820:212, 213, 217)

「あなたは変わることができる!-パート1」より

(イエス:)新しい武器はあなたが戦うためだけでなく、霊的に成長し、わたしとのつながりを保ち、将来起こることのために準備を整え、あなたを強めるためでもある。そして戦いに襲われたら、新しい武器を使えばその武器があなたのために戦ってくれる。だがプライドはそれを使わせまいとする。わたしを賛美し、親密に愛し、わが愛の律法を実践し、預言でわたしから聞いており、すべての事についてわたしに尋ねていれば、霊的に成長するだろう。それはわが霊の法則の一つだ。自分にできることをしていれば、できないことはわたしがしてあげよう。すべての事についてわたしに尋ね、言われたことに従おうと最善を尽くせば、わたしはあなたが成長して進歩する助けとなることをするように告げる。しかしプライドのせいでこれらの新しい武器を使っていないなら、成長しない。

(イエス:)あなたのために大いなるものを沢山用意している。わたしはあなたに、最高級のハイテクの道具や賜物を差し出している。霊の内でより成熟しており、賢明で経験が豊かな者たちなら、これらが最高級品で、その上を行く物はないことがわかって、直ちに手に取る。しかしまだ子供ならば、これらの道具の価値や質の良さがわからず、今までのおもちゃや、ちゃちなゲームで遊ぶだけで満足し、無視してしまう。あなたにもわかるたとえを語ろう。これらの賜物、預言の賜物、わたしを愛する賜物、賛美の賜物、わが愛の律法を実践する賜物は、わたしが与えたいと望むハイテクの最高級品の賜物だが、あなたはおもちゃを下取りし、これらの賜物を受け取ろうと手を差し出さなければならない。次に、使い方を学ぶために努力をしなければならない。新しいプログラムやオペレーティングシステムを学ぶために時間をかけるのと同じように、これらの賜物の使い方を習得するために努力しなければならない。時間をかければかけるほど、熟練するからだ。

しかしそれには譲渡し、おもちゃや安っぽい小物や、わたしからではない態度や肉の欲望をフォーセイクすることが要求される。これらの霊の物事を奇妙なものだとか、自分には難解すぎるものと思わないように、あなたはわたしに思いや考え方を変えてくださいと求めなければならない。あなたはこれらを絶対的に必要なものと見なすべきだ。これはあなたの選択であって、心と思いの姿勢だ。(ML #3277, GN 880:24, 36-37)

GNのアサインメントを妥当な期間内に実行する。

「さらに鍵について、パート4」より

(ママ:)愛する皆さん、これらのことを実行するのを怠らないで下さい。それはホームにおける全般的に弱い面だと聞きました。そして、ほとんどの人にとってもそうでしょう。預言からであろうが、ピーターまたは私からのリクエストであろうが、GNの中に、個人的、またはホームとして主から何かについて聞くように提案してあっても、多くの場合、そうしないのです。その時間があるように思えないのはわかりますが、主から具体的に聞く時間を取らないことで、皆さんが素晴らしい指導や洞察、さらには成功や繁栄、祝福への鍵を逃しているのは言うまでもありません。

主は皆さんに「すべきリスト」をもう一つ増やすために、これらのことについて祈るよう求めているのではありません。これは「不必要な作業」ではありません。この「宿題」は大いに価値があるのです。そして、もしそれに従わないなら、悲しいことにあなたの人生やホームに大きな違いをもたらすかもしれないような、価値あるカウンセルを逃すことになります。大きな必要や良い理由がないなら、主はあなたにこれらのことについて祈るよう求めたりはしません。だから、そのための時間を取るようにして下さいね。どうも、ありがとう! (ML #3357‚ GN 952:90‚ 92)

「祈り、従い、準備せよ」より

(ママ:)残念ながら、何人かのCOから、ニューワインのフォローアップがホームにおいて非常に弱い面である事を聞きました。以前、あなたたちに、幾つかの大切な主題について話し合い、祈るためのミーティングをするようお願いしましたが、後になって、何人かのCOから、それをしなかったホームがかなりあったという事を聞きました。これは容認されません! それが非常に大切でないと確信していなければ、集まって、その主題について話し合うよう求めたりはしません。あなたたちが忙しい事はわかっていますが、このGNを読むだけでは、到底十分ではありません! それがあなたのホームや生活にどう当てはまるかを、意識的に見て、それから、それを実施するために主がせよと示された事をしなくてはなりません! あなたの安全、将来の実り豊かさ、群れと子供の幸せは、あなたが従順かどうかにかかっているのです。 (ML #3420, GN 1007:197)

「問題と解決策、パート3」より

(ママ:)とてもたくさんのホームが、中断などできないと思うというだけの理由で、今でもその日暮らしの生活をしています! あまりにも多くのことが起こっていて、立ち止まって、主から聞き、御言葉を勉強するなんて不可能なことだと思うのです。することがあり過ぎて手に負えません! 「子供達はどうするの? どうやって収支を合わせるの? プロビジョンも毎日しないと。毎日出かけて、資金調達もしなければ。」 けれども主は、あなたがたを立ち止まらせ、祈らせ、主に頼らせようとしています!

犠牲を払うのです。何とかしなければならない立場に主を置いて、主がご自身の約束を果たされるかどうか、見てみるのです。主を何とかしなければならない立場に置き、真剣になり、御言葉を読み、必死に祈り、主の言葉を要求し、自分自身とホームのための指示を求めて毎日主に求めないなら、どうやって主を試し、主を証明することができるでしょうか? 犠牲を払う気がないなら、つまりすべてを中断し、主が言われることを行い、主の言葉をその通りに信じ、主を何とかしなければならない立場に置く信仰がないなら、どうやってこの悪循環を破るつもりなのですか?

主は、御言葉と必死の祈りこそ答だといわれました! けれども、皆さんは「主よ、できません。あなたは時間をくれないじゃないですか。私達にはどっさりいます。いろいろな事が目まぐるしく起きています。」と言っているのです。さて、主はあなたがたにできないことをするように告げることは決してないでしょう! だから、主がそうしなさいと言い、また主の言葉こそ答だ、主に耳を傾け、主が言われることを行うことこそ答だと言われるなら、それが答に違いありません! 何が何でも、その時間を作らなければなりません。

では、主はただ無茶を言っているのですか? 主は愚かな投資家のように、結局無駄になるだけで、必要もないと知りながら、これら全ての御言葉を投資し、たくさんの出版物を注ぎ出されているのですか? 主は、それらに注意を払う者などおらず、誰にも必要ないと知っていながら、言うことが沢山あるので、与え続けておられるのでしょうか? そして、ただ誰かがそれを受け取り、出版することを願っておられるのでしょうか? それとも、人々にそれを読み、行い、それに従うことを期待しておられるのでしょうか? もし、私達が出版している御言葉を、人々は読むことも、使うこともできないと考えておられるなら、賢明な主は、「スピードを落としなさい。彼らにはそんなに必要ないから! そんなに吸収できない!」と言われるはずです。

主はとても頭が良く、賢明な方で、意味もなく物事をする事はありません。WSの私達に仕事を与え、ただ忙しくさせておくためだけに、御言葉を出すようにと言われたりはされません。私達はもうかなり忙しいので、他のプロジェクトや出版物は必要ありません。しなくてはならない事は山とあり、私達はその上っ面をなでている程度です。でも、主は「御言葉を出しなさい! 彼らにはそれが必要だ!」と言い続けられるのです。

さて、あなたがたに必要なのならどうにかして読むことができるはずで、主はそれを望んでおられるはずです。そして、主が望んでおられるなら、主はその時間を供給して下さり、それをする方法があるはずです。だから私達もあなたがたも、できないと言うべきではありません。あなたにはそれができ、主は私達に望まれているように、あなたがたにもそうしてほしいのです。私達全員ができます。なぜなら、私達がしたくてたまらないこと、主が望んでおられると知っている事は、心から主を喜ばせたいと思っているなら、するはずだからです。

愛する皆さんの気持ちは分かりますし、辛い経験をしている皆さんのことを思うと、心が痛みます。でも、主が何度も言われていることからして、あなたがたの問題の多くは、従順さに欠けていること、つまり、従って、主の御言葉のもとに行き、そこに書いてあることをしっかり実行するだけの犠牲を払おうという気持ちに欠けていることが原因なのは明らかです。でも、従うために犠牲を払うなら、主は大いに助けて下さるでしょう。でも、あなたがたが最初のステップを踏まなければなりません。「主よ、できません!」と言う代わりに、水の上に一歩を踏み出して、不可能について神に信頼する必要があります。そうすれば、主はあなたに会われ、喜んであなたを助けて下さるでしょう。 (ML #3071, Vol 23:155-157, 165-167, 169)

5. 弟子である。忠誠を保ち、妥協せず、ドロップアウトし、世俗の霊や態度、物質思考主義を現さない。

ホームは、ファミリーだけが持つ資質の全体的な見本、ダビデの教えに沿ったフルタイムの弟子の資質の見本であるべき。

「次のステップ」より

(ピーター:)先に説明したように、ファミリーを救うというのは、フルタイムの弟子の見本を維持しなくてはならないということです。これは簡単には説明できない概念で、ファミリー全体にとっても、その重大さを把握するのは簡単ではありませんでした。弟子の見本は、単なる個人ではなく、ホームの見本と関係しているのです。イエスの時代にいた大勢の弟子たちの場合、彼らの献身の度合いは多種多様でした。ライフスタイルは様々でしたが、皆、イエスの教えに従う人たちでした。けれども、ダビデの子供たちに対するフルタイムの弟子の基準は、レターによって明らかになっています。基準の質も向上し、詳しく説明されるようになって、現在、ダビデの言葉による完全な弟子の資質には、ライフスタイルに関する多くの具体的ポイントが含まれるに至りました。それらは、共同生活をする(大きなホームにおいて)、信仰によって生きる、すべての物を共有にする、子供をホームスクーリングで教え、宣教師、弟子となるべく育てる、アクティベーテッド推進を含む調和の取れた宣教活動を営むなどです。

FDメンバーの人たちは、ファミリーのフルタイム弟子の見本を維持するという任務を負っています。その言葉が意味するすべてにおいて弟子の見本を反映しなくてはなりません。レターに述べられているフルタイムの弟子に関するすべての側面に生き、また現代の弟子の像としての生き方を維持することが求められています。それゆえ、FDメンバーであるあなたには、弟子という名の肩書きがつきます。それがあなたのメンバーシップ・カテゴリー、独自の召しと任務の質を一番良く表しているからです。そして、あなたはそれを決して忘れるべきではありません。(ML #3483‚ GN 1068:27‚ 28)

「2004年 新年のチャレンジ」より

(ピーター:)ですから、弟子の資質について復習しましょう。始めに弟子の生き方、また自分を弟子であると言う人の生き方について聖書には何と書かれているかから見ていきましょう。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)

--つまり、忠実に、堅実に証しするという事です。

「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。」(使徒行伝2:44-45)

--共に働き、共に暮らし、持ち物を共有し、団結し、一つのからだとなり、利己的にならないという事です。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(ルカ9:23‚24)

--自分を捨て、自分のしたい事ばかりするのではなく、心から主のために生きるという事です。

「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:33)

--全てを捨てる! 持ち物だけでなく、自分の意志を神に開け渡し、自分の意志を何もなくする事です。主が言われる事は何でも喜んで行い、自分の人生、願い、自分のゴール、自分の望みを捨て、それを主に捧げるのです。

「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。」(2コリ6:17)

--世俗から出るのです。あなたはこの世にいますが、この世のものとなる必要はありません。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

--二心でないという事です。全てを主に捧げるのです。「お金を貯めよう」とか、「仕事を見つけてやりたい事をやる。それから時間の一部を主にあげよう」と言ってはいけません。片方を愛してもう片方を憎む事になります。じっくり考えて下さい。

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」(ピリピ4:19)

--供給を主に信頼し、信仰によって生きるという事です。簡単ではありませんが、これも弟子である事の一部です。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(1ヨハネ3:16)

--いつか誰かのために死ぬというのではなく、毎日自分を捨てるという事です。あまり気に入らないあの人のためにでさえも、あるいは、少し神経を逆なでする誰かのためにさえも。それでもその人たちのために命を捨て、心から共に働き、助け、その人たちの必要を自分よりも上に置く事になっているのです。その理由は・・・

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」(ヨハネ13:35)

--あなたが弟子であるかどうかを示す愛のテスティモニーであり、団結のテスティモニーです。自分たちだけの小さなホームで自分たちだけで暮らしているか、ホームで利己的に暮らし、ホームに溶け込んでいないなら、人々にはその愛、団結、一体性が見えません。けれども聖書には、それによって人々はあなたたちが弟子であるとわかると書いてあります。そんなにも違うのです。互いへの愛があるというのは、それほどのテスティモニーなのです。あなたはそうしていますか?

「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8:31,32)

--これは「もし、~なら」の条項です。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」 御言葉の内に生きているなら、それにとどまっているなら、それならば弟子なのです。逆に言えば、それらの事をしていないなら、弟子ではありません。あなたはどうですか? 御言葉の内にとどまっていますか? 御言葉を人生に適用していますか? そうならば、あなたは弟子です。そうでないなら、あるいは十分していないなら、弟子ではありません。かなり単純明快です。

「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」(ヨハネ15:8)

--あなたの証しの実は何ですか? あなたのミニストリーの実は何ですか? あなたは実を結んでいますか? あなたのホームは実を結んでいますか? 弟子、コンタクト、友人、主の下に獲得された人々、世に出される証しという実を。実は何ですか? 正真正銘の、後に残る実は。

(ピーター:)これらはこの場に合った聖句のほんの数例で、きっとあなたももっとたくさん見つけられるでしょう。ファミリーの弟子になりたいなら、ダビデとマリアの終わりの時の弟子になりたいなら、これらの聖句に生きるだけでなく、レターにも生きなければなりません。今の時代のための神のニューワインを人生に応用しないといけないのです。そうしていないなら弟子ではありません。弟子であるというのは、御言葉を行う人であり、それを適用しているという事です。

弟子というのはただの言葉ではありません。ただ信じるだけの問題ではありません。信じる事でもありますが、同時に行う事であり、行動です。その人が弟子かどうかは、主のために何をしているかでわかります。信仰がなくてはいけないのです。信じなくてはなりません。霊的生き方と、主と近しい歩みがなくてはなりません。けれども、同時に、それを行動に表さなくてはならないのです。この聖句のように。「行いのない信仰は死んだものである。」

教会組織にもイエスを愛している人たちは大勢いますが、その人たちは弟子ではありません。主に仕えている人たちは大勢いますが、その人たちは弟子ではありません。なぜなら、完全な弟子の生き方を維持していないからです。全てを捨てていません。主の御心に本当に委ねてはいません。そういう人たちは、「あなたに仕えますが、私の条件で仕えます」と言っています。

CMファミリーにいる私たちは弟子であるべきです。そして、弟子とは何であるかを理解する必要があります。弟子の資質とは、多くの行動に基づいています。自己改善ではありません。ルールを守るだけではありません。奉仕なのです。自分自身を100パーセント捧げる本当の奉仕です。

自分の時間をどう使っているかを自問するといいでしょう。そうすればどの類の弟子であるか、あるいは多少なりとも弟子であるかどうかがわかります。あなたは何を最優先していますか? 「そうだな、自分の物を手に入れないと。兄弟ではなく自分の面倒を見ないと。兄弟よりも自分を先に置かないと。私には自分の人生のゴールがあって、それに到達しないといけない」と言っていますか? さて、人生に自分自身のゴールがあるのは悪い事ではありませんが、それが、神があなたの人生に用意しておられるゴールでないなら、あなたはどこに向かっているのですか? あなたは自分に仕えているのですか、それとも主に仕えているのですか?

弟子の資質とは、霊の問題です。それをあなたたちに伝えたいのです。問題はこれです。あなたは霊的に弟子ですか? 弟子の心を持っていますか? なぜなら、弟子の心と霊を持っていて、本当に全てを捨て、イエスに完全に人生を捧げているなら、あなたが人生に結ぶ実や、あなたの生き方における優先順序や、どのように生きているか、何をしているか、どのように行動しているかに、それがおのずと現れるからです。あなたのいわゆる弟子としての生き方は、単にルールに基づいたものとはならないでしょう。

私たちにはルールがあり、それは大切です。大切でないと言ってはいません。けれども、あなたが弟子なら、ルールが全てではありません。なぜなら、主を愛し、主に従い、御言葉に従っているなら、他の全てのルールも自然と守る事になるからです。あなたは悪いテスティモニーとはならないはずです。個人の問題に圧倒され、打ち負かされはしないはずです。兄弟と不和状態で暮らしたり、人々に対して意地悪にはならないはずです。この世や体制の物に執着しないはずです。そして、証しするでしょう。魂を獲得するでしょう。宣教活動を営んでいるでしょう。主が弟子の生き方として語られた全ての事をしているはずです。そうせよというルールだからという理由でするのではなく、イエスに従う者としてそうすべきと知っているからするのです。あなたは弟子です。プロです。

私たちが本当に求めているのはそれです。主はそれを求めているのです。そして、主はそれを極めて明確に言われました。

あなたの弟子の資質とは、行動、行い、生き方、従順です。ただ信じ、聞き、受け入れるだけではありません。それも弟子の資質の一部ですが、それだけではありません。弟子の資質とは、その全てです。信じ、聞き、受け入れる事ですが、同時に行う事でもあり、行動に移す事でもあり、人生を生きる事、霊の内で弟子である事、弟子の心と弟子の霊を持つ事です。そして、それらものがあるなら、あなたは弟子の人生を生きるでしょう。そして、それは非常に明白になるでしょう。それらのものがないなら、ごまかしはききません。心が弟子でないなら、CMホームに住んでいても、弟子にはならないでしょう。心がそこにないからです。そして、変化は、そこ、つまり心から、心の底から生じなくてはなりません。

(イエス:)弟子である事は、厳しい人生だ。ごく少数の人のためであり、多くの人のためではない。今日、ファミリーには、実際には弟子の資格を持たない人が大勢いる。弟子になりたくないのではなく、弟子になりたいという願いがないのでもない。そのように生きるという重労働を喜んでする気があまりないのだ。彼らは喜んで犠牲を払う気がないのだが、真の弟子である事には多くの犠牲が関わってくる。

正真正銘のファミリーの弟子は、もし本当の弟子であるなら、犠牲を払い、与え、委ね、互いを優先し合い、わが言葉に従い、わたしのために働き、実を結ぶだろう。そして、その結果、幸せになり祝福されるのだが、それでも犠牲を払っているのだ。幸せであっても、弟子である事が、自己否定の犠牲的な奉仕であり、与える生き方であるという事実はなくならない。それには犠牲を要する! そして残念なことに、今日のわが子供の多くには、そこまで行こうという気がない。彼らは「二つのことを同時に楽しもうとする」ことに慣れてしまった。彼らはファミリーの中にいて、なおかつこの世に生きる事もできると思っている。

わたしはファミリーを、急進的な真の弟子に戻そうとしている。つまり、ほとんど一人残らずファミリー・メンバー全員にとって、自分にとって大切なもの、世俗とつながっているもの、彼らを「この世の友」とし続けているものを、大々的に捨てる事になる。この世はわたしに敵対するものであり、この妥協は容認されない。

あなたは「そんなに悪くない」と言うかもしれない。だが、それが大きな妥協の始まりであって、それが弟子の基準を引き下げ、ファミリーから、弟子と、将来弟子になる可能性のある人を引き出して、サタンの落とし穴に落とすのだ。

わたしはファミリーからこの妥協を清め、取り除かなくてはならない。そしてその唯一の方法とは、軍旗を高く掲げて、人々にもう一度チャレンジを与える事だ。(ML #3468, GN 1054:128-140, 160-167, 173-177)

体制からドロップアウトしていて、信仰によって生き、体制の仕事に頼るのを避けるということ。

「分離せよ!-確信対妥協、パート3」より

(ママ:)憲章ではあなたたちが体制の仕事に就くことを許しています。こう書いてあります。

場合によっては、一部のホーム・メンバーはサポートの手段として一般の職業に就いたり、ビジネスを始めることを望むかもしれません。それは「責任と権利の憲章」で明確に禁止されてはいないので、一般的には認められます。奨励はしませんが、禁じられてはいません。(「ホーム生活に関するルール」、I)

「奨励はしませんが、禁じられていません」という大切な部分に注目して下さい。オープンなフィールドにいるメンバーによる体制の仕事のほとんどは神の最高の御心ではないというのが、ピーターと私の断固たる確信です。ほとんどの体制の仕事は、弟子としての基準に対する妥協です。それがフィールドに留まるために絶対必要なものか、非常に明確で豊かな証しの手段を供給しているか、多額の収入をもたらすゆえに大勢の精力的な宣教師たちをサポートするかでない限りは。

(イエス:)体制の仕事がどんどん増えているというこの傾向は、深刻な問題である。そして、そのおもな理由は、ファミリーの最も貴重な必需品、つまりマンパワーを奪っているからだ。わたしは何年もかけて弟子を訓練した。それなのに彼らは出て行って、憲章を「言い訳」に、自分たちの才能を、神を敬わないビジネスに投資している。・・・

大勢の者たちが、「体制の仕事」を、そんなにおおごとではない小さな問題として考えている。だが、現実は、それは非常に破壊的な敵からの侵入である。不和がファミリーをバラバラにしているように、体制の仕事は戦場の前線で敵と戦っているはずの兵士を引き抜くのであり、彼らは弱く、病弱で、心の内にバックスライドしている。次第にこの兵士たちは、困難な進軍や危険な任務では事実上使えなくなるほど、魂を奪う者の洗脳に喜んで服従するようになる。彼らは、自分たちが証ししているべき哀れな人たちと同じようになってしまう。たとえ証ししたとしても、人々は彼らを見て、「どうしてあの教会に加わりたいだろうか?」と思うのだ。

体制の仕事は、あなたが今気づいているよりもずっと大きな問題をもたらす。早い内につみ取らないなら、またこの傾向が反対にならないなら、第二世代を破壊してしまうだろう。献身した宣教師になれたはずの才能ある若者の中には、体制にゆっくりと吸い込まれ、献身した体制人になっている者たちがいる。

(ママ:)・・・心からフルタイムの弟子になりたいなら、完全に献身することが必要です。それは、キリストの教えに従う者になるということです。仕事時間のほとんどをマモンに仕え、もし時間があるなら、おまけで少し証しをするというものではありません。

多くの時間を取られるのに、主のための正真正銘の強い永続する活動に発展する手段は供給しない仕事やその他の資金調達技術を使っている人たちの大部分が、体制やお金、またはその両方のためにあくせく働くことを、憲章で許されていると言って正当化しています。その通り、憲章では許されています。私たちは体制の仕事に対して、小さな開口部をもうけなくてはなりませんでした。おもな理由は、ファミリーの宣教師たちがその国に留まるために仕事を持たなければならないフィールドがあるからです。・・・

また、体制の仕事を持つことが、ユニークな証し、またはサポートの機会になっている独自な状況も幾つかあります。一人のホーム・メンバーの仕事がホーム全体をサポートし、他の人たちがフルタイムで証しできるようになっているまれなケースなどです。各々の状況はその長所によって判断され、あらゆる要素が公平に考慮されなくてはなりません。体制の仕事を持ち、最低限の憲章の要求事項を行っているものの、実際には自分たちの妥協したライフスタイルをサポートするためだけであり、お金は稼ぐものの、証しをほとんどか全くしない人たちと、ホーム全体をサポートするために体制の仕事をし、そこでメンバーは共同生活をして、証しの高い基準を保ち、フェローシップなどをしている人たちとの間には、大きな違いがあります。

宣教師たちが全くオープンに活動できる非常に可能性あるフィールドの幾つかが、抑制され、実を結ばずに終わっているというのが真実です。フルタイムの宣教師になっているべき人たちが英語を教えていたり、プログラミングやウェブサイト、グラフィックスをセットアップしていたり、風船を売ったり、クラウニングやフェイス・ペインティングをしたり、さらにはファミリーやクリスチャンとは関係ない品物を売ったりしているからです。このすべてには、ほとんど、あるいは全く証しが関わっていません。これは確かに、憲章でチャーター・メンバーに対して体制の仕事が許された時の私たちの意図ではありませんでした!

ホームにおいて、成功している証しのミニストリーをサポートするために、証しとしてはそれほど効果的ではない資金調達の手段に幾らか時間を費やすのはわかります。・・・

あなたは基本的には、憲章の権利で許されている体制の仕事に就いているかもしれません。また、同時に少し聖書学習に参加し、憲章で要求されている最低限の証しをしているかもしれませんが、それぞれの状況で気をつけなくてはならないのは、あなたの人生のあらゆる面における全体的な実なのです。

自問してみて下さい。「体制の仕事に就くことは、私を人生の他の面で妥協させているだろうか? 独立的になっただろうか? 使徒行伝2章44-45節に生きる上で、妥協し、『自分が稼いだ』資金にしがみついているだろうか? まだ信仰によって生きているだろうか? それとも、もはやそうではないのだろうか? ライフスタイルで妥協しているだろうか? それは、私の全体的な見本をうち消しているだろうか?」と。

体制人と同じような生活をしているあなたを[体制の友達が]見る時、それは一体どんな証しになるというのでしょう? そして、あなたは自分自身を、宣教師、弟子だと言うのですか? そして、あなたは弟や妹、他の若者にとってどんな見本になっているのでしょうか? あなたは、彼らにあなたのようになってほしいでしょうか?

体制の仕事を持つ理由もわかります。経済的に安定したい、「その日暮らし」に疲れた、仕事で人に会える、仕事中に証しができる...などです。けれども、弟子になるというあなたの人生における主の召しと、これらのいわゆる「利益」を比較して、真剣に考慮してほしいのです。それとも、あなたは他の皆と同じでいることで満足しているのでしょうか?

自分の人生をどう生きるかはあなたの決断です。そして、自分の時間をどう使うかは、本質的には、人生をどのように生きるか、です。だから、体制の仕事を持ちたいなら、それはあなたの選択です(ホームが投票によってそれを承認するなら)。けれども、このGNを読んだ後、真剣にあなたの決断について祈り、再考するよう求めます。

(イエス:)体制の仕事は、時にはわが意思であることもあるが、世界中のファミリー・メンバーが現在携わっているような程度までは行き過ぎだ! 体制の仕事を持っている者たちはそれぞれ心を探り、ホーム・メンバーやシェパードとカウンセルするべきだ。仕事を、なぜ自分は働いているのかについて再評価し、真剣になって自分がわが意思の中心にいるかどうかを尋ねるべきだ。経済的な観点から見てはいけない。わたしはあなたのために供給でき、また供給するだろう。それを霊的な観点から見なさい。

*それはあなたをもっとオンファイヤーでラディカルな証し人になるよう助け、動機づけているか?

*それは人々に手を伸ばし、利他的に犠牲的に与えるようにあなたをかきたてているか?

*それはあなたをわたしにより近づけるようにしているか?

*それによって、他の人があなたの内に良い実が結ばれているのを見るか?

*それは仕事に就くことについて最初にわたしに尋ねた時に与えた条件に合っているか、約束を成就しているか?

*それはホーム前進させ、進歩を遂げさせているか?

*仕事をやめるべき時は今だろうか?

(ママ:)主は、体制の仕事を持っているチャーター・メンバーのほとんどに対して、仕事をやめることを望んでいるというのが、ピーターと私の心からの確信です。そうです、やめるのです。祈って、それについて今日、主から聞いて下さい。それから、仕事先にやめることを告げるのです!・・・仕事をやめることはできないと感じるなら、御言葉を読んで、主がこのシリーズで説明しておられるように、メンバーシップを変えるよう導いておられるかどうか、主を求めるようにして下さい。

多くの体制の仕事と、その実り豊かさを私たちが調べた理由の一つは、ファミリーは、これから加わるようになる新しいメンバーに対して、なるべき見本になるため、用意を整える必要があるからです。明らかに、フルタイムのCM宣教師であるべき人たちの多くが体制で働くことに大部分の時間を費やしているなら、二つの深刻な問題があります。1)証しする時間がないので、新しいメンバーを勝ち取れない。2)あなたはフルタイムの弟子としての見本になれない。だから、たとえ新しいメンバーを勝ち取ったとしても、彼らはあなたの見本に従うようになり、真の弟子になるための確信に欠ける。

体制の仕事からドロップアウトし、主のためにフルタイムで働くことで自分たちの必要が供給されることを主に信頼するガッツをあなたに与える唯一のものは、最初の弟子たちがドロップアウトし、初期の頃にイエスのための革命を生み出した同じ聖霊の呵責です! それは御言葉とレターが真実であるという信仰、ためらうことなく、そこに記されたライフスタイルに生きたいという信仰であるべきです。神を一心に求め、従う者を神は報われるという信仰、約束されたようにあなたの必要を供給されるという信仰であるべきです。

これは個人の決断です。これは、あなたと主と間での決断です。これは、あなた自身の確信と自分の人生で何をしたいか、またイエスのために何をしたいかについてです。

現在のファミリーで行われている数多くの体制の仕事のことを、ピーターと私がうれしく思っていないことははっきり告げておきましょう。主だって同じです。私は、まるで自動的に「問題なし」とか、「正しい」、あるいは神の最高の御心である、あるいは「憲章で許されている」という、体制の仕事に対するあなたの「言い訳」を暴きたいと思っています。もしあなたが、宣教師として、フルタイムで証しできる国に住んでいるなら、自分の体制の仕事が神の最高の御心だと私に信させるためには、憲章にある一つの引用文よりはるかにたくさんの理由が必要です。そしてその宣教師とは、あなたを見て宣教師だとわかるような宣教師、あなたは異なっており、イエスのために生きているとわかるような宣教師のことです!

CMファミリー・メンバーから、フルタイムで証しをし、フォローアップをする資質を取り去るこのような仕事が神の最高の御心であると私に納得させるには、あなたのホームから単に「OK」の投票をもらう以上のことが必要になります。少なくとも、2人または3人の受信経路の口から主の確証をもらい、ホームから全面的に支持されるべきです。そして、可能ならエリア・リーダーシップからの支持と承認を受けても良いでしょう。さらには、このすべてが揃っていても、その上にあなたは、自分が弟子として実り豊かで生産的であることを証明するような、仕事と人生における実を結ばなくてはなりません!

もちろん、体制の仕事は許されています。けれども、許されているのと、神の最高の御心にいるのとは全く別です。憲章には、仕事をすることは許されているものの、奨励していないと記されているのを忘れないで下さい。いつから憲章では体制の仕事が禁じられていないという事実が、聖書の教えに優るようになってしまったのでしょうか?

体制の仕事への、この集団的な動きを通して、ファミリーが失いかけているものがわかりますか? すべてです! 私たちは、自分たちを異なる者としているものすべてを失いかけています! 私たちは、終わりの時の特別な召しを失いかけています! 主の祝福を失いかけています! 私たちは、説教ではなく見本となるための力を失いかけています! 冠を失いかけています。主は、私たちがこの漸進的な妥協を続けるなら、主は私たちに取って代わる他の人たちを立てると言っておられるのです。

でも、たぶんあなたはそんなことは気にしていないのかもしれません。ファミリーの将来は、あなたにとってそれほど重要ではないのかもしれません。あなたは、自分のことと肉親のことだけを気にしているのかもしれません。わかりました、それなら、それについて話しましょう。神の最高の意志ではない体制の仕事や、ファミリーが創ったフルタイムの自営業を続けるとしたら、あなたが個人的に失いかけているものとは、何なのでしょう?

自分に正直になるなら、きっと、体制の仕事やファミリー内での証しとは関係ない資金調達に頼ることは、あなたの人生とホームに、あらゆる種類の弱さをもたらすのがわかるはずです。あなたは霊的に弱くなります。証しへの重荷を失います。イエスのために100%生きていないので、供給の奇跡に対する信仰を失います。使徒行伝2:44と45に生きる代わりに、独立的で利己的になります。あなたの給料や稼いだお金の残りを「パーソナル・マネー」として取っておくために、各ホーム・メンバーは○○円だけを共同資金なべに入れればいいという「ノルマ」に訴えるようになります。最終的に、あなたの人生とホームは、もはやファミリー宣教師のそれとは似ても似つかなくなります。そしてあなたがそのように続けていくなら、終いにはどこに行き着くかを教えてあげましょう。体制です。あなたは信仰の筋肉を鍛えないことによって、霊的に病に冒され、かたわになってしまいます。結局は、自分が間抜けで偽善者のように感じるので、弟子であることのメッセージを全部与えるガッツすらなくなります。戦いにうみ疲れ、ますます周りの人たちと同じになって、ついには彼らの一員となってしまうのです。

それについて考えれば考えるほど、ファミリーをとらえているこれら様々な妥協はすべて関連しており、それらはすべて、イエスの教えに生きるという私たちの見本の土台に打撃を与えています。証しはますます減ってきています。あなたたちは信仰によって生きておらず、体制の仕事や、証しとはほとんどか全然関係ない、ファミリーが創った資金調達方法によってサポートを得ています。個人の所有物が増え、弱い人たちへの世話が欠けています。あなたたちはもはや、分け合ったり使徒行伝2:44-45に生きたりしていません。多くのCMファミリー・メンバーは、もう互いに一緒に暮らしたがりません。一家族だけのホームが何百とあるばかりか、最低限の憲章要求事項を満たしているホームの多くでさえとても小さくて、うまくいっている幸せな共同生活の図とはほど遠いのです。

これがどのようにファミリーの外観を変えているかがわかりますか? この分では、ダッドと主が創ったファミリーは、過去のものとなってしまうでしょう!

(イエス:)体制の仕事に関してもう何年も前に出版された、過去にわたしが与えたカウンセルは、今日どう生きるべきかに関する言い訳を探し出すためのものではない。今はアクションの時代だ! あなたは終わりの日々に入ったのであり、あなたの行動様式は、それに従って変わらなくてはならない!

わたしはわが民を解放してわたしに仕えさせたい。わたしはこの世の体制の手中からわが子らを呼び出して、彼らが信仰により、信仰によってのみ生きることができる、わが腕の中へと招いている。わたしは彼らを体制の手中から、彼らが将来の悩みの時を生き残ることができる場所へと呼び出している! わたしは彼らを、今日の反神、反キリスト体制から出て、わが代弁者、終わりの時の奇跡を行う者となるよう呼び出している。

体制の仕事というこの件には、幾つかの例外がある。体制の仕事に対する基準は、どれだけの証しを与えられるか、どれだけの御言葉が渡せるか、新しい弟子や、友人、サポーター、アクティブ・メンバーが、どれだけの訓練を受けられるか、どれだけのツールが配れるかによる。

わたしはすべての者に、証しして勝ち取るように呼びかける。もし、これができるような仕事があり、彼らの確信が妥協されず、ツールやメッセージを出すことができ、他の者たちに教義を教えることができるような場合には、わたしはそのようなミニストリーにおける彼らの努力を考慮し、祝福する。それでも、これは通例ではなく、例外となるだろう。 (ML #3363, GN 959:9-10, 12-14, 18-24, 26-28, 43, 46-49‚ 52-54, 93-96, 98, 167-170)

神を敬わない影響を避ける・・・

(注:インターネットの使用、体制の音楽、映画、テレビ、スポーツ、小説、コンピューター・ゲーム、倒錯したセックス、ポルノに関する主の観点については、「直言」パート7、8、9、10を参照して下さい。)

「論点、パート3」

(ダッド:)さて、ここで一歩下がって、ファミリーの基準から離れて状況を見てみよう。弟子となることについて話そう。イエスに従うことについて話してみよう。あなたはファミリーにおらず、ただのイエスの弟子だとしよう。さあ、イエスは何を教えられただろうか?

「ファミリーはとても考え方がせまく、保守的すぎる! 私には自由が、世俗とのアクセスがもっと必要だ。私は自由な考え方をする必要がある。自分の行動や何を見るか、制限される必要はない」と思っているなら、自分がイエスの弟子になりたいのかどうか考え直してみるべきだ。イエスこそ、最初に弟子の基準を設けられた方なのだから! 最初の弟子たちは皆、主の教えに従いたいかどうか決めなくてはならなかった。それは、彼らの基本的なルールまたは「チャーター・メンバー契約書」となった! そして、あなたがたも同じことをしなくてはならない。

御言葉を信じ、従い、証しし、すべてを捨て、不敬神で霊を高めない影響を避けるよう求められるのが好きではないとしても、ママやピーターを非難してはならない。私を非難してはならない。ファミリーを非難してはならない。主を非難しなさい! 主こそ、弟子となる「任務の声明」を最初に書かれた方なのだ! 主がこの団体を築き、基礎を定められた。それがルールである! ファミリーの教えの悪口を言い、ののしり、不平を言うのはバカげている。それは、本当はイエスの教えなのだ! それが好きでないなら、出て行けばいい! それこそ、S2K全体の要点だ。ファミリーの中で主に仕えることが、大切な思考の自由や個性を奪っていると心から感じるなら、多分、ファミリーはあなたのための場所ではないのだろう!

それは、あなた次第だ。誰も強制したりはしない。弟子となることを選ぶか、選ばないかだ! それはあなたの選択の自由であり、あなたの思考の自由だ。受け入れるか、去りなさい。 (ML #3302‚ GN 904:85-88)

「直言、パート8-明確なラッパの音」より

(イエス:)あなたがたが受け取った霊の富と、長年の間どのように霊的に養われてきたかを考えると、あなたがたの信仰は弱い。どうしてか? 他のどの世代の人よりも多くの真理や霊的啓発を得てきたというのに、どうしてその祝福に見合うだけの信仰がないのか? あなたがたの信仰がそれと同様に全世代の内でも最も強くないのはどうしてなのか?

おもな理由の一つは、あなたがたの多くが悪魔の侵入を許し、わが真理の種を盗むままにさせたからだ。あなたがたはわが言葉にあずかったが、その後でこの世のものをとてもたくさん取り入れた。そして、後から取り入れたものが、わが言葉の時間の良い実の多くを駄目にした。

再生前の習慣を天秤として見るなら、ちょうど、片方にわが言葉の重りを置いたので、あなたにとって益となる方に傾いたが、その後に世俗のインプットをあまりにもたくさん取り入れて、天秤が釣り合ったか、さらにはこの世の方に、つまり悪魔の益となる方に傾いたかのようだ。そしてそれが交互に傾いたのだ。だから、わが言葉の重りが悪魔の影響や言葉よりもはるかに重いことであなたは霊の億万長者であるべきなのに、たいていの場合、そのようにはなっていない。

あなたがたのほとんどは、再生前は単に「差し引きゼロ」だった。というのも、わが言葉は取り入れたが、その後は文字通り、この世からのインプットでそれを帳消しにしたからだ。これは善対悪の問題であって、この世の悪があまりにも頻繁に、あなたの人生におけるわが言葉の善を根こそぎにしたのだ。

これは悲惨な光景だ。あなたがたはそれぞれ、膨大な量のわが言葉と真理を手に入れられる立場にいるのだから、最強の聖徒の一人となり、史上最強の御言葉戦士となり得たともいうのに、ほとんどの人はそれにはほど遠い。むしろ、「普通」や「平均的」の方にかなり近い。その理由は、妥協によってとても多くの真理を無効にし、効果をなくしてしまったからだ。

あなたはそれまでわが言葉の真理を確立し、強めようとしてきたのに、悪魔が彼のプロパガンダという「消しゴム」を手に取って、それを消すままにさせているのを見るのは、わたしにとって悲しいことだった。それが何度も繰り返された。真理が消されると、あなたはまた、もう一度それをつなげ合わせ、ダメージを収拾しようとして、真理を書き直そうとする。

簡潔に言うと、それが、野放しにされていた世俗のインプットが非常に多いことによってダビデの子供たちに起こったのだ。それが、あなたがたが今頃までにはなれたはずのパワフルな聖徒、奇跡を行う者になるのを妨げた。それが、あなたがたを通して現されるわが力の多くを先延ばしにした。そのせいで、あなたがたは今頃までにはなれたはずの状態から見ると、発育障害であり、知恵遅れになっている。あなたがたのとても多くが、同じ霊の土地をならし、同じ建物を建て続け、それから悪魔にそれを壊させ、また建て直すということを繰り返さなくてはならなかったからだ。

現実世界では決してそんなことは許されない。あなたが仕事をしているとして、誰かが繰り返しやって来て、あなたが進歩を遂げるや否や、それを台無しにし、それが何日も何日も続くとしたら、あなたはすぐその問題者を追い出し、二度とあなたの建物に近づけさせないだろう! その泥棒か破壊者がやって来て毎日毎日あなたの建物を壊すのを許す一方で、そのたびに同じ事を何度も何度も繰り返したいなどという願いは毛頭ないはずだ!

それはどう見ても馬鹿らしいし、無益だ。あなたは問題を起こす者を止めるか、自分が移動するか、もっと保安と防衛を固めるか、何かをする! 何度も同じ土地を整地し、毎日毎日何の進展もないのに同じ事を繰り返さなくてもいいように、どうにかして解決策を見出そうとする。

現実の世界において自分の身にこのような事が起こるのを許すというのは、どれだけ馬鹿らしく、イライラさせられ、気違いじみているかに気づくのはいともたやすい。だが、あなたがわが言葉への信仰を築こうとして一生懸命頑張り、霊の武器を使う練習をしても、その後、「自分が作った物」から離れ、悪魔の世俗のインプットが何の制限もなく乱入して備品や道具や器具を壊すのを許し、次の日に「仕事場」に戻った時にまた修理や修復をしてからでないと前進できないようにしているのであれば、霊の領域ではまさにそれが起きているのだ。

悪魔のこのやり方がどれだけ欺瞞に満ち、しかも効果的であったかがわかるだろう? あなたが建てた建物を壊し、真理の土台を消し、防御の壁をたたき壊していたのは悪魔だったのに、あなたはそれに気づきさえしていない。逆に、ここが彼の計画の本当に狡猾な所なのだが、あなたはわが言葉やわたしに何らかの不足があると非難する。真犯人を見逃し、逆に、わたしやGNや預言者やファミリーを非難する。とにかく、悪魔以外の何でもかんでも非難する。彼は、嘘つきの泥棒という正体を見抜かれない限り、あなたが何も見えずだまされていることを大喜びしている。

悪魔は体制のインプットによって損害をもたらそうと侵入する。あなたは偽りの宗教書を読むほど無知ではない。あなたはもっと道理をわきまえているので、悪魔はもっと巧妙な手を使わなくてはならない。彼は、あなたがわたしの本ではなく仏陀の本を読みたいとか、わが言葉ではなく超越瞑想にふけりたいという誘惑には引っかからないと知っている。それはあまりにも明白で、あなたはそんなものにはひっかからない。それで彼は攻撃を偽装して、おもに娯楽による体制のインプットという、受け入れられる方法を使う。それは大丈夫で、受け入れられることと見なされてきたので、悪魔には、あなたの心に出入りして、あなたが霊的な強さや信仰を築き上げるために努力し、成し遂げてきた善きわざを台無しにするための行動の自由がたくさんあった。

その欺きは、あなたが心(着物)を焼かれずに、体制の影響(火)をふところにいだけると思う程に侵入した。(箴言6:27) あなたは体制のインプットを、特に悪影響も良い影響もない当たり障りのないアクティビティーとして考えた。だがそれは全く違う。体制の影響が良い影響であることは滅多にない。ほとんどの場合、悪影響を及ぼす。そして、悪影響というものは、ただあなたの心や思いに入ってきてそこに住むだけではない。それはまた、あなたが積み上げてきた良いものを無効にしてしまう。それは、わが言葉の善と一緒に共存はできない。それを消してしまうのだ。

だから、かなりの体制のインプットを取り入れるなら、たとえ忠実にワードタイムや祈りの時間を取っていても、霊的には全く前進せずに同じ場所で立ち泳ぎをしているだけだ。というのも、あなたは悪魔が体制のインプットによって侵入し、あなたの壁を倒し、土台を根こそぎにし、道具や機材を隠して、最初からやり直さなければならなくするのを許すからだ。

(イエス:)すべての体制のインプットに、暴力映画や悪魔的音楽のように一目で分かる明白な悪影響があるわけではない。だが、インターネットで無意味な情報を読み過ぎるだけとか、コンピューターでソリティアをするのはどうなのだろう? それのどこがそんなに悪いのだろうか?

あなたは時々、累積作用を見なくてはならない。体制のインプットはいくら「無害」に思えても、時間を取る。それにはあなたの貴重な時間が取られる。さもなければ、わたしや失われた魂と過ごす時間、さらにはあなたの霊にもっと益をもたらすような、家族との団らんや団結をもたらす方法でくつろぐために費やされていたかもしれない時間が取られる。

だから、体制のインプットがすべて即座に悪影響を及ぼすわけではないものの、累積的には悪影響を及ぼす。特に、それを多く取り入れすぎ、思慮深く自分の霊を防護していないならそうだ。そうなると、無意味なアクティビティーに時間を費やすことに慣れきってしまうので、人生に無気力や自己満足の霊をもたらしうる。他のもっと実りのあるアクティビティーがあまり魅力ないものに思え、さらには退屈で不快なものに思えてくる。体制のインプットは、それをする時に他の人たちに手を差し伸べたり、霊的に自分の能力をさらに引き延ばしたりする必要がないという意味で、普通、利己的な性質を有する。それは時間を浪費する。そしてこのすべてはあなたの霊を強めず、かえって弱める。

そしてもちろん、暴力的映画、悪魔の嘘、いわゆる「娯楽」に織り込まれた巧妙なプロパガンダなど、明らかにあなたの霊にとって悪い体制のインプットもある。そういったものも当然気をつけるべきであり、わたしはそれを完全に避けるよう強く勧める。だが「良性」のものでさえ、それを取り入れすぎ、バランスが取れておらず、わたしの許可なしに行われるか、あなたの霊がそれを扱うだけ強くないなら、それはあなたの霊に害を与え、弱めるものとなりうる。

だから、愛するファミリーよ、フルタイムの弟子であることを望む人たちよ、これがあなたへの警告だ。あなたがたは、自分たちの信仰が本来あるべきほど成長していないことや、願う奇跡を見ていないこと、また、持っているべきだと感じる霊のパワーを持っていないことと、あなたが取り入れている体制のインプットの量と間との関連性に気づかなければならない。今、後戻りして、悪魔が抑制されていない体制のインプットを通してあなたがたのさなかに侵入し、あなたがわが言葉を読み、学習し、暗記し、祈った時に築かれた仕事を台無しにする自由を与えるなら、あなたは、自分が望み、またわたしが予言した奇跡を行う者や預言者になることはできない。

わが霊の強力な水路になりたいのであれば、また、この世界を正したいのであれば、わが命令を行うことを望むフルタイムの弟子になりたいのであれば、あなたのものであるべきダビデの言葉の真理を、敵なる悪魔の邪悪な影響によって奪われてはならない。

これほど多くの真理を与えられ、それを読み、学習したとしても、それだけで、終わりの日々に悪しき者である悪魔を打ち負かすためのわが手の器になれると保証されているわけではない。ダビデの泉の水を深く飲み込むだけでは十分ではない。それは半分に過ぎない。あなたは自分の人生における悪魔の泉を封じ込めなければならない。悪魔の侵入を阻止し、あなたが築いているものを彼が破壊し、奪い取り、壊し、消し去るという行動の自由を禁じなくてはならない。

望むだけ成長するつもりなら、そしてわたしが約束した奇跡とわが力の現れを見るつもりなら、両方の要素が欠かせない。これらの約束は条件付きであって、より高いレベルで身を捧げ、献身することが必要だ。このような御霊の賜物、奇跡、わが力の現れにふさわしい者になりたければ、この世からさらに離れ、その悪から分離していなければならない。

フルタイムの弟子になることを真剣に目指している人たちよ、もしあなたが、心に革命の火が再び燃えるように呼ばわっているなら、そしてわたしがわざを行い動くのを見たいのであれば、体制のインプットが持つ弱化作用に気づくという要素があなたの人生に欠けている可能性が非常に高い。わが言葉の革命に忠実であり、義を追い求め、わたしが約束した御霊の実と賜物を願い求めているのに、まだ何も得られていないと感じるなら、わたしはあなたに、この世のものから離れ、この世の快楽への執着を捨て去り、体制の魅惑に背を向けるよう呼びかける。それをするなら、あなたは霊的成長と理解の面での著しい向上を感じ、わが霊はより明らかに現れ、あなたは奇跡を見るようになり、塗油や力も増すだろう。

わたしはすでに、わが言葉や新しい武器、鍵と鍵の約束、スピリット・ヘルパーや妨害者たちに関するより深い知識、ファミリーの改革、より大きなホーム、またこれから出るボード評価基準というセーフガードを通して、あなたに必要なものはすべて与えた。あなたは、自分が望む革命的な原動力になるために必要なものすべてを、直ちに利用できる。ただ賢く働けばよいだけだ。そして、それをするには、あなたの進歩や信仰をこの世の有様や概念、態度、インプットと置き換えることによって奪い取ろうとする黄泉からの強盗や泥棒、凶悪犯やギャングの一味の侵入を阻止するために、ドアに錠をかけなくてはならない。

体制のインプットはどれも影響力がある。これは陽性でも陰性でもない、何の影響力もない中性ではない。だから、選択に面した時にはこう自問しなさい。「これは今まで私がしていたことを台無しにするだろうか? これは私の霊的強さの壁をむしばんだり、私の霊に取って望ましくない習慣を強めたりするだろうか? これは私の霊的バリアへの侵入だろうか? これは私の時間を無駄にするだろうか?」 もしそうであれば、選択はあなたにかかっている。あなたは賢くなって、その邪悪な侵入者を追い出すだろうか? それとも、悪魔が夜にこっそり侵入してあなたが築いた物を破壊し、妨害するのを許したことで、毎日毎日、何度も何度も同じ壁を建て直し続けることで満足するのだろうか?

これはすべて、あなた自身と、どれだけ本物の力と塗油を持ったフルタイムの弟子になりたいかにかかっている。これはすべて、あなたがどれだけ奇跡を見たいか、あなたの内にわが言葉が成就するのを見たいかにかかっている。何であれ、あなたは自分が一番愛するものに執着するだろう。あなたはそれを容認し、それを求めるのだ。

これで、わたしが元々与えたカウンセルにぐるりと戻ることになる。わたしは、昔の弟子たちを呼んだ時のように、ダビデの子供たちであるあなたがたを呼ぶ。彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受け入れよう。そして、あなたを受け入れる時、わたしはあなたに、奇跡を行うわが力にフル・アクセスさせる。その時、あなたがたは召された通りの終わりの時の預言者になるだろう!

(ママ:)先のメッセージは、体制のインプットが常に有害で、良い選択肢であることは全くなく、強い弟子になりたければ常にそれを避けることを選ぶべきという意味なのだろうかと思った人もいるかもしれません。私たちは、この主題についてさらに語り、この質問への明確な説明を下さるよう、主に求めました。

(イエス:)わたしがどこに「一線を引く」かは、多くが、あなたの態度、心と思いの状態にかかっている。残念なことに、映画、小説、コンピューター・ゲームなどの体制のインプットを本当に望み、渇望する人たちにとって、「一線」は非常に痛切なものとなるだろう。わたしが完全な祝福と許可を与えるようなものはそれほど多くない。なぜなら、あなたの心がそのようなものを渇望し、あなたがそれに耽るような時には、幾つか危険な点があることをわたしは知っているからだ。

その一:あなたはそれをそのまま取り入れる。思う存分楽しみたいので、リラックスし、ガードを下げる。すると、それはあなたの心と霊に入っていき、あなたの一部となる。

その二:これはあなたにとって中毒となる可能性が高い。また、すでに中毒になっているならば、ほんのちょっと得た後でそこから脱却したり、取り入れる量を敬神的な制限内に留めておいたりするのはずっと難しくなる。それに耽りたいという願いは、霊を強く保つための確信よりも強くなり、決断する際、おそらく肉があなたの霊に勝ってしまうだろう。

その三:それがあまりにも好きなので、危険性に気づかないことがある。あなたは、自分の霊を汚すものを取り入れた時、霊の内で必死に「清められ」ようとしていない。それらの汚すものが心地よいからだ。あなたの判断力は鈍っており、個人の好みや、しばしば誤った趣味に影響されている。そして、これはあなたの霊にとって危険だ。

これは守りがたい金言だ。というのも、体制のインプットを渇望し、それを取り入れられたらいいのにと望めば望むほど、それはあなたにとって危険になるからだ。どうしてそうなのか、理解できるだろうか?

それとは逆に、執着がずっと少なく、本当の優先事項に時間をつぎ込むために常日頃から体制のインプットなしでやることを選んでおり、進んでわたしから具体的なカウンセルを受け取ろうとしており、また、たとえ実践するのが難しくとも、兄弟からセーフガードを求め、それにしっかり従っており、わたしに対して心を清く保ち、強い弟子となることがあなたにとって一番大切であるなら、それなら、わたしは、時には体制のインプットが伴う何らかの娯楽をさせようという気に、もっとなるだろう。それに対するあなたの観点は異なっているからだ。

ここに、ダビデの子供たち全員に持ってほしい、体制の娯楽への態度と観点を挙げよう。あなたがこのような態度と観点を持っている時には、時折幾らか体制の娯楽にあずかってもわたしは気にしない。あなたがそれを正しい位置に保っていると知っているからだ。

その一:あなたはその実態を知っている。つまり世俗の娯楽であり、世俗の一部であることを。時にはそれがあなたにとって楽しいこともあるが、あなたは完全にガードを下げたりしない。そして、識別力を持てるよう、わたしからの助けを必死に求めている。そして、あなたにとって有害であるか、あなたの霊に損害を与えるものであるというチェックをわたしが与えるなら、あなたはつかの間の娯楽よりも自分の霊的生活をもっと気にかけているので、立ち上がってそこから離れる。これは、難しい決断をすることや、現世の楽しみよりも霊的なものの価値を選ぶことによって鍛えられた、霊的な強さだ。あなたにそのような霊的強さがあり、それを用い、鍛えているなら、わたしは体制の娯楽が関わる物事をするための許可を、もっと安心して与えることができる。というのも、もしそれがあなたの害になり、あまりにも影響が大きすぎる場合、必要とあれば、わたしはあなたをそこから引き離すことができると知っているからだ。

その二:あなたは兄弟姉妹、仕事仲間、同労者たちとのつながりを非常に重んじているので、彼らや彼らの必要を第一に置く。選択があるなら、あなたは、一人でくつろいだり、ほとんど中身がないか、全く中身のないフェローシップの環境の中にいたりするよりも、彼らとの愛の絆を強めることを選ぶ。あなたは団結がどれほど大切かを知っている。それは霊の物事を中心とした団結、あなたがたが皆共有しているわたしへの献身を中心とした団結、妥協のない弟子の生き方を中心とした団結であり、あなたはその団結を維持するために犠牲を払うことをいとわない。それ自体、体制の娯楽を過度に取り入れないためのセーフガードだ。なぜなら、ほとんどの人は忙しく、両方をするための時間などないので、兄弟たちと愛とフェローシップを分かち合うという正しい決断をすることで、体制の娯楽に耽る時間は制限されるだろう。

その三:体制の娯楽は時にはとても楽しいものの、その後には常に清めが必要であることを知っている。あなたは、わが言葉に浸る質の高い時間によって自分を防護し、取り入れた娯楽によって直面した質問や心的態度、微妙なニュアンスについてわたしを求める。あなたは、自分が影響を受けていると「感じ」ない時でもそうする。影響を受けた可能性が大いにあると確信しているので、霊の内で清められるのに必要なステップを踏む。あなたは会話や行動によってわが言葉を支持する。あなたの生活はわが真理のテスティモニーを伝える。あなたは人の意見はそれそのもの、つまり時と共に過ぎ去り、変わりゆくものであり、しばしば悪魔自身によって影響されているものとして受け止める。一方、あなたは永遠に変わらないわが言葉を重んじ、支持する。

その四:以上のポイントを読めば、このポイントは明白かもしれないが、これもまた霊の内でドロップアウトしていることの「兆候」なので、とにかくここでそれを述べよう。あなたは楽しみを体制の娯楽に頼らない。あなたはそれを楽しむこともでき、拒むこともできるという態度を持っている。リラックスしたい時に自動的に世俗の娯楽に頼ることはしない。体制の娯楽はあなたの生活において普通のことというより例外であって、あなたは体制の娯楽にあずかる前に、いつ、どれだけ、何を、などに関して忠実にわたしに尋ねている。何か楽しくてくつろげる事をしたい時には、自動的に仲間や子供たち、愛する人たちとのフェローシップを求め、「再生スタイル」のアクティビティーをする。

だからと言って、時々体制の娯楽を楽しまないわけではない。あなたがたの中には、自分を抑えないでおくなら、おそらくもっと体制の娯楽に耽る人もいるだろう。だが、あなたは、意識的にそこから離れ、楽しみを体制の娯楽に頼らない方を選んでいる。あなたは自分の霊のために、また強い弟子であるためにこのような犠牲を意識的に払っているのであり、わたしはそれゆえにあなたを誇りに思っている。

これらの態度や確信、行動があなたの生活に固く根付いている場合、わたしはあなたがくつろぐ時に幾らか体制の娯楽を楽しむ余地もあると言うだろう。これらの面のどれでもだらけ始めた途端、それは物事のバランスを崩しており、態度や物の見方が「はずれて」いるという兆候だ。だから、物事を正しい位置関係に戻すために体制の娯楽を完全に退け、わたしと再生の縮小版を行うのがあなたにとって良いだろう。

また、自分ではこれらのことに気づかなくても、あなたの仲間やシェパードたちは気づいていることがよくあるのも知っておきなさい。そして、本当に弟子でありたいなら、あなたは彼らのカウンセルを受け入れ、強い弟子でいるのを助けてくれるセーフガードを求めるだろう。

(イエス:)体制のインプットに関しては、もしわたしに完全に従いたいのであれば、あなたは祈り深く、注意深くなり、自分の霊を防護するだろう。あなたは、悪魔の巧妙さや彼の攻撃に気づくようになる。あなたは、この方法によって敵である悪魔に機会を与える時、あなたの思いや心にしみ込んでくる体制の汚水に注意するだろう。あなたは代価を数える。わたしに尋ね、この世があなたの人生にどのような影響を与えることを許すかについて、わたしから承認を受け取る。それによって、あなたはわたしに従っていることになるので、わたしからの保護がある。

わたしは、わたしからの許可や霊の保護があれば、幾らかの娯楽、幾らかの楽しみ、幾らかのアクティビティーを許す。だが、あなたがわたしの先を行って、わが霊の祝福と保護を受け取らないなら、その時、あなたはこれらの一撃を通して、悪魔の影響と攻撃に無防備になっており、弱められている。

鍵となるのは、わたしと波長を合わせ、喜んで聞き、委ね、従おうとすることだ。だが、とても多くの人が、それは難しすぎる、時間がかかりすぎる、わざわざする価値はないと考えている。あなたがたのとても多くが、自分はもう「大人」だから、そのような決断は自分でできるはずだと感じる。自分の好きなことや、何かを「やりたい気分」だったり、それに対して信仰があるなら、できて当然だと感じている。あなたは自分が代価を払って買い取られたこと、悪魔の汚染を取り入れることに関しては自分にとって何が最善かを知らないことを忘れている。

秘訣は、わたしとの歩みをはるかに近く保つことにある。また、この世の物への欲求、切望、それがなくてはならないという気持ちを捨てることにある。わたしはそれを完全に取り去るわけではないが、その飽くことのない欲求、つまり「どうしてもそれがほしい」という気持ちがあり、「それがないと人生は楽しくない」と信じているなら、あなたは、悪魔が侵入して、あなたの思いと心、態度に足場を得る重大な危機に瀕していることになる。

あなたはそこから清められなければならない。あなたは、わたしからそれを要求されていないと知りながら、実際、喜んで捨てなければならない。そして、おそらく、心でも行動でも、それをすっかり捨てるべき人もいるだろう。だが、その選択はあなたに任せる。そしてもし、喜んでそうしたいという気持ちでわたしの所に来るなら、わたしはそれについて個人的にあなたに語ることができる。中には中毒になっている人や、非常に弱くなっている人もいる。そしてこの再生期間は、あなたをやっとのことで生き残りのレベルまで引き上げた。だが、体制のインプットという落とし穴にまっすぐ戻って行き、特に様々な道からインプットを取り入れるなら、あなたはさらに弱くなり、最終的に倒れてしまうだろう。

あなたが、この世の物事や肉の物事ではなく、むしろこれから来る時代や、あなたの霊的備え、理解、霊の事柄に関するわが言葉についてもっと語り、わが言葉にもっと重きを置き、それについて考え、研究し、調べ、わが言葉をもっと重要視するなら、わたしは喜ぶだろう。非常に多くの時間が、映画やコンピューター・ゲーム、インターネット、体制の音楽、映画スター、ファッション、この世のがらくたについて話すことで浪費されている。足下には霊の宝がどっさりあるというのに、どうして弟子たるものがそれらのことばかり話しているのか? たいていの場合、この世の事について話すのに夢中になっている人たちは、霊の宝を捨てている。

二心でいることはできない! 神とマモンの両方に仕えることはできない。そして、自分が誰に仕えているのかわからないなら、ここに、それを極めて明確にするテストがある。あなたの会話や思考は証しを伝えているかどうか。わたしやわが言葉、霊の物事について話すより、この世の事柄やこの世の物質的な物、体制の娯楽についてもっと話しているなら、あなたはマモンに仕えている。あなたの時間や思考、エネルギーはそこにつぎ込まれているからだ。それとは逆に、わたしに栄光を帰し、わたしを高める人は、本当にわたしに仕えている。そんなにも簡単なことだ。

その事実に面と向かうのは簡単ではない。あなたがたの多くは、この方法によって自分の霊的生活を正直に評価し、判断するなら、人生にかなりの不足面があると気づくだろうからだ。だが、これについて正直になるのは十分価値がある。これが、最先端を行く弟子の資質の鍵だからだ。

(イエス:)わたしが、あなたが取り入れる世俗のインプットに関してもっと祈り深く、思慮深く、わが言葉に従順になるよう求めている目的とは、あなたの人生から何かを取り去るためではない。むしろ、わたしはあなたの人生をはるかに良いもの、はるかに価値あるもので満たしたいのだ! 「してはいけないこと」ばかりに捕らわれるのではなく、「すべきこと」を果たすこと、わたしや他の人たちのために前進の一歩を踏むことに全身全霊を投じなさい。すべきことを果たしており、あなたをわたしのためのより良い弟子にさせる物事に集中しているなら、おのずと「してはいけない」ことを避けるようになるだろう。あなたは達成可能で価値あるゴールを目指すようになり、そのゴールを目指し、そのために終始努力することが、それ自体、充実感や満足感を与え、報われることとなる。あなたは、進歩、チェンジ、奇跡を見るようになり、自分の霊的生活や弟子としての資質に違いを感じるようになる。(ML #3512‚ GN 1100:38-47, 52-83, 90-94, 99-101, 115)

反ファミリーのウェブサイトにアクセスせず、御言葉に反対して語る人や、あなたの信仰を滅ぼそうとし、あなたやホームを霊的に弱めようとする人との接触や、不必要なフェローシップを避ける。

「城壁の上に留まりなさい」より

(ママ:)ピーターと私は、誰でも、このような元メンバーの非難を読んだり、聞いたりするなら、たとえCMファミリーを心の底から支持している献身した人であっても悪影響を受けることと思います。彼らが友だちだと言うなら、もっと難しいでしょう。けれとも、誰かがあなたの友だちだと言ったからといって、必ずしもその人が友だちであるとは限りません。イエスが、「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものである」と言われたように。ファミリーの人たちを愛していると言いながら、ファミリーの教義やリーダーシップや活動を公然と非難し、攻撃する人たちに用心しなさい。彼らの言葉は牛酪(バター)のようになめらかですが、その心には戦いがあるのです。

中には、愛の内に「道を外した羊を救」わなければという、やむにやまれぬ思いからこれをしていると主張する人もいます。でも、これこそ、まさに反カルトの人たちも主張することだという事実に盲目であってはなりません。「ああ、私たちは彼らを救い出さなくては! 私たちは彼らに真実を示さなくては。」それから疑いや惑わし、暗示、曲解された半分の真理が出てくるのです。

さて、彼らはどうしてそのようなことをすると思いますか? その実は何でしょうか? 彼らの願いは何でしょうか? 私たちの主への仕事を止め、あなたを止め、あなたをやめさせることです! あなたが剣を置き、魂を勝ち取る戦いから離れ去るのを望むのは誰でしょうか? 主ではないことは確かです!

電子メールその他を通して、元メンバーたちからそのような否定的で不平を生じさせる手紙を受け取ったなら、たとえ彼らがあなたの昔からの友人でも、わざわざ読まないように勧めます。それは、サンバラテとトビヤと同じ事だからです。(ネヘミヤ4章) 彼らは、イスラエルの子らに聞こえよがしに疑いや非難を言いました。自分たちの言葉が人々に影響することを知っていて、彼らが城壁を築くのをやめさせたかったからです。それらの実例は私達のためになるよう聖書に記されています。特に、歴史上なかったほど霊的な戦闘が確実にし烈で激しくなっている終わりの日々を迎えている私達のためにです。自分の霊的健康を気にかけていて、イエスのためにできる限りのことを成し遂げたいなら、また、不必要に傷を負って、神の終わりの時の軍隊で立派な戦いができなくなるのを望まないなら、好奇心に任せて、そんな下劣な手紙にわざわざ関心を寄せたりしないよう勧めます。そして、それを他の人たちに送らないで下さい。

これらの人々があなたがたの信仰を攻撃していることを忘れないで下さい。だから、それらの手紙を他の人たちに転送することで、彼らの攻撃を宣伝したり、それに加担したりしないで下さい。絶対に自分が強くとどまる助けにならないのに、それについてあれこれ考えることで、自分の霊を汚して、頭の中を疑いや混乱でいっぱいにするのは愚かなことです。すでにそんな手紙を読んだなら、主を求め、祈りをしてもらい、自分のシェパードたちから助けてもらうことで、いかなる疑いからも清められる必要があります。それらの疑いを心に根ざさせてはいけません。自分が弱まって、ついに打ち負かされ、主への奉仕を放棄してしまうようになるほど、疑いを成長させてはいけません! 自分の信仰に対するこの攻撃に堂々と立ち向かう必要があります。あなたは誰の言葉を信じるのですか? 神のですか、それとも人のですか? (ML #3303, GN 902:17-19‚ 42, 43)

「選択とそれに伴う当然の結果、パート2」より

(ママ:)ここで、皆さんに思い出してもらいたいことを付け加えます。誹謗者や背教者が書いたものを読む必要がない時には、読まない方が賢明です。予想していなかった何か、また避けられない何かを耳にしたり読んだりした時に、もしあなたが主の下に行ってそれに関する御言葉を受け取り、霊的に清められるなら、主はそれをテストとして使い、それを通してあなたを強めるでしょう。けれども、害や危険ともなりうるものに故意に接触するなら、それは普通、知恵や確信、自制がないということです。そして、あなたが自らをそのような状況に置いたことにより、主があなたを害や危険から保護するための力は減ってしまいます。もちろん、ピーターと私は、あなたたちがそれらのものを読むことを禁じません。でも、どうかそれがあなたの霊にとって害になり、霊を弱めるかもしれないことに気づいて下さい。そしてできることなら、たとえ後に「清められる」予定だとしても、自分をそのような立場に置くのは避けるのが賢明です。(ML #3485, GN 1070:10)

「あなたは弟子になりたいのか?」より

(ママ:)悪魔はただ隅っこでぼんやりのらくらしているわけではありません。彼は人の心と魂を得るための全面戦争に出ています。ファミリーと戦っており、あなたと戦っています! 悪魔はあなたを倒したがっています。あなたを倒せば、ファミリーを徐々に崩すことができるからです。あなたたちは一人一人、ファミリーの極めて重要な部分ですし、あなたのコミットメント、信仰、見本は、ファミリーのコミットメントであり、信仰であり、見本なのです。悪魔はあなたの信仰を奪いたがっており、そのためにはどんなことでもするでしょう。彼の策略を幾つか挙げるだけでも、体制の音楽や映画、インターネット、小説、雑誌、生ぬるの教会的な本、メディア、テレビ、世俗的なプロパガンダや娯楽に過度にふけることなどがあります。残念なことに、悪魔は、以前私たちの一員であった人、つまり私たちから去って、今では活発に私たちや私たちの信仰を攻撃することを選んだ人たちさえも使っています。

しっかりと立っていたいなら、弟子でありたいなら、主のために進み続け、信仰を守りたいなら、決断し、自分の立場を明らかにしなくてはなりません! あなたの信仰や、弟子としての地位や、どれだけそれを大切にしているかは個人の決断であって、誰もあなたに代わってその決断をすることはできません。中にはその価値をあまり認めていないか、信仰を弱めている事柄にはっきり気づいていない人がいるというのは、とても残念です。そういう人たちは、悪魔の攻撃や、信仰をむしばもうとして悪魔があなたの人生において使っている手段に対して軍旗を掲げていません。自分は強いからそれを扱えると思っているのです。でも、再度はっきりと言いたいです。そういう妥協、世俗の侵入、疑いや不信をもたらす物事は、あなたの信仰を弱め、あなたを主から引き離します。なぜなら、それは悪魔の計画なのです。

じかにであれ、手紙やEメールであれ、インターネットで元メンバーのウエブサイトやチャット・グループに行くことであれ、あなたたちの大勢が取ってきた悪魔の嘘との接触は、あなたが弱くなったことの一因です。それは、あなたの信仰と確信の低下を生じさせ、あなたを御言葉から引き離し、疑いを抱かせる一因となりました。妥協をもたらし、最終的に主の仕事を滅ぼすというのは、悪魔の襲撃方法の一つです。残念なことに、中にはそれに気づいていない人たちがいます。自分は十分強いので、何も影響を受けずにそのすべてを飲み込めると考えているのです。でも、自分は十分わきまえていると思っているか、主のカウンセルを心に留めない人たちは、引き続き弱くなっていき、しまいには奉仕の場と冠を捨てることになるでしょう。

あなたは、遊び半分で疑いをかじり続けないということを自分自身決意すべきであるだけでなく、ドアをピシャッと閉めて、これらすべてのものの目的と、それらはあなたの信仰を滅ぼすために悪魔が造ったものであることを、確信を持って認識すべきです。悪魔のゴミに対して心の扉を開き続けてはいけません。それはあなたを弱くします。たとえそれがあなたの愛する家族や友達であっても、敵意を抱いた元メンバーたちが言っていることにそんなにも翻弄されてはいけません。また、あなたが接触している元メンバーが「敵意を抱いた元メンバー」の部類に入るかどうかがよくわからなければ、主に尋ねなさい。主はご存じです。

中には、それが神から出たものであるかどうか、「霊を試して」いない人たちが確かにいます。(1ヨハネ4:1) 自分が見たり読んだりするものについて個人的に主に尋ねていないのです。バンダーリの悪鬼たちがどんなに邪悪で悪意を抱いているか(ML #3420, GN 1007)について主があんなにも説明して後ですら、バンダーリの影響を受けた人たちが吐き出している物の中にふけっている人たちが今でもいます。ですから、どのようにしたら強められると思うのですか? この道を行き続けるなら、あなたは主の御心からはずれて、主の奉仕から出る道のりにいることになります。あなたは必ず弱くなります。

また、神の御言葉や、私とピーターがここ数年中に様々なGNで言ったことよりも背教者の言葉やアドバイスを信じる誘惑に駆られているなら、それはどうしてなのかを主に尋ねた方が賢明でしょう。それらのレターは、「これらの何ものにも私は動じない!」(ML #3307, GN 906)、「WSの真実の姿」(ML #3309, GN 910‚ 911)、「城壁の上に留まりなさい」(ML #3303, GN 902)などです。主の御言葉や、御言葉にある特定の事柄を信じるのに苦労しているなら、それについて自ら主に答えを求めなさい。イエスのために生きることを真剣に考えているなら、主の御言葉に生きなくてはなりません。それが信仰の基盤です。それに、御言葉を信じないなら、どうやってそれに生きることができるのですか? 皆さん、それは本当に大切です!

(ダッド:)あなたたちの内に、どうしてファミリーを攻撃している人たちの嘘を読みたいと思う人がいるのか、私には理解できない。それを読むのが仕事だからそうしなくてはならない人もごく少数いるが、私は、そういう人が御言葉によって心と霊を忠実に清めているよう祈るよ。

あなたたちは、主が悪魔に対して丁寧な態度を取ったと思うのか? 主が腰を下ろして悪魔の嘘や、非難や、その類のものにじっくり耳を傾けたと思うのか? そんなはずはない! 背教者たちからのそういうネガティブな投稿や、手紙、Eメールは、あなたの信仰を滅ぼすために悪魔が計画したものだ。だから、それを読むということは、悪魔に場所を与えていることになる。悪魔に場所を与えると心を決めているのだ。そして、それは、神の言葉への不従順を犯していることだ。(ML #3458, GN 1043:6-7, 13, 15-17, 35-36)

6. 互いに、愛情深く、首尾一貫してシェパディングを与え、また受け合い、霊的に強いホームを維持するための要求事項を守ることで、勝利チームを作る。

ホーム・シェパードは、ホーム・メンバーの霊的シェパディングと、ホームにおいて、様々なボード評価基準にある霊的要求事項が果たされていることを確かめる責任を負う。

「直言、パート3-『干渉しない』シェパディング」より

(イエス:)人生の一定の面についてシェパディングにオープンでないなら、あなたにはそれが本当に必要であるという確かな証拠だ。あなたの人生で、閉ざされ、秘密にしておき、「触れるべからず」にしている部分こそ、おそらく、わたしと他の人たちから一番助けを必要としている部分だろう。

人生には、自分でははっきり見えない事があるものだ。時々、わたしは、あなたに自分の問題を見えなくさせることすらある。それは、あなたが自分自身を閉ざし、人生をさらに秘密のものにするためではなく、他の人たちからの助けを受けざるを得なくするためなのだ。

(ダッド:)シェパードというものは、時々、おせっかいになる必要がある。いつもそれを好むわけではなく、あなたにそれが必要だからだ! 自分の人生に、シェパディングを受け付けることができず、触れてはならない事柄があるという考え方を持っているなら、たぶんそれこそ、一番シェパディングを必要としている事柄だろう。

主は、あなたが人生においてどこでどのように罪を犯し、不足しているかを正確に知っておられる。そして主は普通、シェパードがやって来て、それについて尋ねるずっと前に、あなたの心に良心の呵責を与えようとする。主はシェパードたちをあなたの人生のその面に導かれる。あなたにはそれが必要だと知っておられるのだ。だから、その面で自分を閉ざすなら、あなたはとても素晴らしい時を逃すことになる。

人生の一つの面を閉ざし、外からの助けやカウンセルなしでやっていけると考えるのは、危険だ。そうなると、悪魔はいとも簡単に、あなたの目をくらまして、その面でのあなたの霊的生活に深刻な害を及ぼせるようになる。悪魔は、あなたが他の人からの助けを受け入れないと知っている。だから、問題を見せずにおくことができれば(誰でも、自分の問題をはっきり見るのに苦労しているので、これはそんなに難しくない)、悪魔は自由に動ける。

そして、そうだ、主と、主の直々のシェパディングにオープンになろうと思うのは簡単だし、生身の人間であるシェパードが介入して、あなたが非常にプライベートな問題と見なす事柄におせっかいを焼かれるより、そちらの方をずっと好むだろう。だが、私がずっと前から言っていたような見方をしなさい。優しく説明し、あなたと祈り、その後に抱きしめてくれる生身のシェパードからコレクションや指導を受ける方が、主が力ずくで介入し、あなたのどこが間違っているかに目を覚まさせなければならない所までなるより、ずっと簡単だ。

もちろん、あなたが主に助けを求め、主からのシェパディングを受けているなら、主も愛情深くして下さるが、後回しにしすぎ、他の人を通して主が与えようとしているシェパディングに自分を閉ざすなら、主は普通、あなたの関心を引き、目覚めさせ、どのように道から外れたかを示すために、もう少し極端な事をしなければならない。

そして、生身のシェパードにオープンでないなら、あなたは主の御前にもあまり謙遜でもオープンでもないので、両方の面で損をしているというのが現実だ。

主は、あなたたち全員をシェパードにしようとしておられる。主が人々を様々なリーダーシップの地位に就かせ、ホームやエリアで新しいシェパードが出てきている時、その人たちを新しい見方で見るは難しいかもしれない。あなたは、こう考えている。『この人は先月まで、普通の人だった。それなのに今、彼はチームワークで、私の子供や夫婦関係についてあれこれ尋ねてもいいと考えている』と。

さて、みんな、そういうものなのだ。主は、その仕事にぴったりだと知っておられる人を立て、その人が主の訓練に委ねるなら、そのための塗油を与える。もちろん、他人が自分の私生活に立ち入るのに慣れるのは少し大変だし、時間もかかるが、それを、主の御手から来たと見なしなさい。主こそ、全体計画を立てる方であり、主はすべてを見抜いておられる。

わかるだろうか、これからあなたは、助けを受けることに対して一番閉ざしていた人生の部分こそ、しばしば、霊的に進歩を遂げるための鍵となる部分であることを知るようになるだろう。いったんその面で克服したなら、主に対して心を開き、すべてを主に委ねたことになるので、その他のすべてがぴったりうまく収まるのだ。よく考えてみなさい。

これは話し合うのが一番つらい事かもしれず、あなたは、これは自分の人生だ、自分の子供だ、自分の夫婦生活だ、自分のセックスライフだ、自分の信仰だと思う。さて、確かにあなたが一番の当事者だが、私たちのホームではすべてが他の人に影響する。あなたの人生に起こっている事は、良かれ悪しかれ、絶対に他の人に影響する。うまく隠しているとか、抑えていると思うかもしれないが、何かが間違っているなら、少なくともあなたに影響しているし、あなたがホームに影響を与える。そればかりか、あなたが罪を抱き続けたり、人生のある面で妥協し続けるなら、それはあなたの霊的生活の他の面ににじみ出る。一つの面でシェパディングに抵抗するなら、最終的に、ますますシェパディングに自分を閉ざすようになり、終いにはファミリーから出ることになる。

もう一つの見方もある。弟子になると決めた時、あなたは主に人生を捧げた。だから、主があなたの人生のどこに働きかけようと、それは主の自由だ。そして主はしばしば、仕事仲間、同僚、ホーム・チームワークなど、生身のシェパードを通して働くことを選ばれる。

「私は主のシェパディングに委ねており、それにオープンだ」と言うのは簡単だ。だが、「私は誰それのシェパディングに委ねていて、それにオープンだ」と言うのは、それほど簡単ではない。だが、主はそういうやり方をされる。主は、実際のシェパードを使ってご自身の羊を世話される。これは、すべての人を謙遜に保つのにも役立つ。なぜなら、コレクションを与えるのは謙遜にさせられることだし、コレクションをもらい、誰かから自分が間違っていると言われたり、何かを指摘されたり、少なくとも私生活のある面について祈るよう言われたりするのも、謙遜にさせられることだからだ。だが、それはあなたにとって良いことだ。それも成長の一部だ。私たちはファミリーとして進歩を遂げなければならず、シェパディングとは、各自がそれをするのを助けるために主が使われるおもな手段の一つなので、ファミリーの弟子全員がシェパディングにオープンになることは、絶対に必要だ。

だから、これらの言葉を聞き、注意しなさい。人生のすべての面においてシェパディングにオープンになるのが早ければ早いほど、長い目で見てもっと簡単になる。あなたの人生において、とても多くの良い実が結ばれるだろう。あなたは謙遜さを身につけ、弱い面で成長し、ホームの団結を促し、あなたが正直に心を打ち明け、助けが必要であることを示すたびに、主の強さと力を受け取るからだ。あなたが弱い時、主はあなたの内に強くなる。(ML #3501, GN 1088:43-57)

ホーム・メンバーは、全体的な見本、実り豊かさ、霊的状態と霊的進歩、ホームの決断とその決断による影響を含めたホームの状態について責任を負う必要がある。これがホームとしての説明責任の概念。

「フルタイムの弟子とは?」より

チャーター・メンバーは以下の事をすべきである。

K.自分の必要よりも、ホームや他のメンバーの必要を考えることによって、「互いの重荷を負い合う」という聖書の教えを実行するよう努める。

弟子である私達はまわりの人たちの身体的、霊的、感情的な必要を知り、できる限りのことをして互いへの愛を示し、彼らを助けるために何でもしてあげるべきです。ホームでは投票メンバーによって数多くの事が決定されるようになるので、他のメンバーが抱える重荷、苦労、戦い、必要に心を留め、自分の望みや願望よりも他のメンバーの必要やホームの益を先に考える心を持つことがより重要になってきます。

(ピーター:)あなたには、ホームや他のメンバーの必要を、自分のものより優先する責任があります。ホーム・メンバーの必要の面倒を見、子供の世話であれ、ファイナンスであれ、愛やアフェクションやセックス(憲章のガイドラインの範囲内で)、何であれ、すべての必要を満たすよう努める責任があります。それが何であれ、助ける責任があります! 私たちは主の御前に、互いの荷を負い合い、自分を愛するように隣り人を愛し、兄弟のために命を捨て、お互いのために日々死ぬ責任を負っています。助け合ったり荷を負い合ったりするのは、単に、良いことや親切なことではありません。それは責任です。チャーター・メンバーたる条件の一部です。

投票メンバーは全員、自分のホームの霊的な面や、実際面、物質面、教育面、経済面において責任を負うよう定められています。それはどういう意味でしょうか? あなた個人が、他の投票メンバーと共に、ホームを霊的に正しい軌道に留める責任を負っているということです。あなた個人が、ホームが霊的に高い基準を保つよう助ける責任を負っています。あなた個人が、物質的な物の世話に関して責任を負っています。あなた個人が、ホームの経済面での荷を負い、破産しないようにする責任を負っています。あなた個人が、ホームの物がよく手入れされ、ちゃんと動くように維持されていることを確認する責任を負っています。あなた個人が、ホームの子供たちが適切な教育を受けているようにするのを助ける責任を負っています。

こういった責任をホームのある人になすりつけ、「ホームは霊的に良くやっていない。しかしそれはチームワークの仕事だ、私のではない」とか「私はチャイルドケアの人員ではないし親でもない。だからホームの子供が貧弱な教育しか受けていなくても、私の責任ではない」とか、「ホーム中が汚い。でも少なくとも私の部屋はきれいだから、自分の分は果たしている」とか言うことはできません。

ホーム全体として責任を果たしていることを確実にする助けをするのは、あなた個人の責任です。ホームの子供が教育を受けていなかったら、親であってもなくても、あなたは責任の一部を負っています。財政難にあるなら、あなたも責任の一端を負っています。霊的に情けない状態であるなら、その責任はあなたにもあります。ホームの中が汚く、それゆえにひどい見本となっているなら、それはあなたの責任でもあります。責任の転嫁(てんか)はあり得ません。ホームにいるチャーター・メンバー全員と共にあなたにも責任があるからです。

ですから、良く考え、自問して下さい。「私は責任を果たしているだろうか? 霊的な面や、実際面、物質面、教育面、経済面でホームがあるべき姿になるのを助けているだろか?」と。それをしていないなら、あなたはチャーター・メンバーとしての責任を果たしていません。

もしかしたら、あなたは、ホームの弱点は他人のせいなので、自分にはホームの問題点を変えられないと考えているかもしれません。さて、あなたは投票メンバーですから、投票によって影響を及ぼせます。問題を見たら、ホームカウンシル・ミーティングで提議する責任があります。そこで自分の意見を述べることができます。それについて御言葉に何と書いてあるかを示せば、なおさら良いです。その弱点が何であれ、それを強めるため、御言葉に従うよう励ますのです。(ML #3469, GN 1055:266-271)

続「シェイクアップ2000」より

(ママ:)皆さんは「シェイクアップ2000」で、ファミリーを清め、清い状態を保ち、私たちの存続自体を脅かしている毒を取り除くために自分の役割を果たすのは、各人・各ホームの責任であることを読みましたね。VSやCROが全部してくれるように頼ることはできません。ホーム・カウンシルはファミリーの3つの運営部門の一つであって、ホーム・カウンシルは個人個人、つまりあなたたちで成り立っているのです! あなたは自分の見本、反応、決断、従順、CMの基準を維持するという決意に対して責任がありますが、ホーム・カウンシルの、賢く分別あるメンバーとなる責任もあります。あなた自身、CM契約書に従わねばならず、それはあなたの義務です。それは明らかですね。でも同時に、他の人もそうするように助けなくてはならないのです。そして彼らがそれを拒んだなら、その人たちを罰するのもあなたの責任です。そして彼らがチェンジしない場合には、あなたには、その人たちがFMに移行されるよう勧められるよう見届ける義務があります。

あなたたちはお互い一緒に暮らし、ホームメンバーがどのようにふるまっているかを見、彼らがCMの基準を維持しているかをどうか知っています。そうしていないなら、それについて何かするのはあなたの責任です! 主はあなたに責任を問われるでしょう! 問題に気づき、それについて祈り、御言葉に基づいたカウンセルとシェパディングを与え、憲章に沿った処罰を与えるのは、あなたの義務です。こうした処置をしても必要な結果が得られないなら、憲章に違反している人にフェローメンバーに移行するよう勧めるのは、あなたの責任です。それは神の御前にあるあなたの義務なのです!(ML #3262, GN 863:150, 152)

「フルタイムの弟子とは?」より

(ピーター:)ホーム・メンバーたちが全体として他の人たちの霊的人生や訓練について責任を受け持つようになります。あなたたち全員が、彼らの成長を助けるために協力していく必要があるのです。だからこそ、個人的にコミットメントしたり、霊的に進歩したり、他の人たちからの霊的な助けを受け入れたり、兄弟を見守る者となったり、ホームの霊を引き上げるようにすることによって、今から始めなければならないのです。ホームとして、あなたたちは進歩を遂げる必要があります。共に成長し、団結し、ホームの問題を解決していかなければなりません。

ホームに問題があるか、霊的問題を抱えた人がいる場合、それについて何かをするのはあなたの責任です。(ML #3469, GN 1055:107‚ 108)

「実り豊かなチームを作る」より

(ママ:)2005年の1月までには、全FDホームは、18才以上のメンバーが最低6人いなくてはなりません。ホームとしての言い開きの責任という概念もあります。2005年の4月にはホーム単位で判断されます。つまり、ホームのメンバーは互いに対して、それぞれが、霊的、肉体的規準を維持することにおいて説明責任を負うということです。ですから、最終的には、しっかりと結び合わされ、互いに助け合い、共に荷を負える人たちと暮らした方がよいのです。主は、ホームが勝利チームになることを望んでおられます。(ML #3496/OOGN13:2)

「あなたのお金はどこにあるのか!-パート1」より

(ママ:)自分自身や他の人たちに対して、従い、正しいことするという言い開きの責任を負うというのは、日々行うべき行為です。つまり、無数の小さな決断が積み重なって最終的な結果をもたらすということです。あなたは自分の人生やホームの状況を好転させることができますが、それには、人生に対する怠惰なアプローチを捨てるための、かなり必死の努力を要します。だいたい何でもやりたいことをやればいい、状況はめちゃくちゃになったり悪化したりせずに、万事このまま続いていくという概念であり、それは間違っています。

毎日毎日、毎週毎週、そして毎月毎月、どんな主題に関する主のカウンセルも無視してきたなら、そして今は特に経済について話しているのですが、その場合、従わず妥協するというあなたの選択や、その主題に関する主の御言葉を気に留めない態度は、最終的にすべて積み重なって大惨事という結果に至ります。言い開きの責任を負うというのは、あなたにはその知識があり、幾つかの真理を知っていて、その真理に従うか従わないかによって祝福されるか損失を被るかのどちらかであるという意味です。

あなたはその手に自分の将来を握っています。文字通り、自分の選択によって主の祝福の手を「支配」しているのです。それに対して何もできない単なる無実の傍観者なのに、あなたやあなたのホームに何かが起こるというわけではありません。あなたが失敗するか、成功するかは、あなたが決めるのです!

言い開きの責任、つまり自分の行動の結果を刈り取るというコンセプトを詳しく説明するために、ここに「失敗と成功の公式」という興味深いニュース記事の一部を紹介しましょう。

失敗は、単一的な一大異変ではない。一夜にして失敗するということはない。失敗はお粗末な考え方やお粗末な選択が積み重なった、避けられない結果なのだ。もっと簡単に言うと、失敗とは、毎日誤った判断が繰り返されていることに他ならない。

そこで、人が判断を誤り、その後、愚かにもそれを毎日繰り返すのはどうしてなのだろうか? その答えは、その人はそれをたいした事と考えないからだ。

毎日の行為は、それ自体ではたいして重要には見えない。一つの些細な見過ごし、一つのお粗末な決断、無駄な一時間は、普通ただちに目立った影響をもたらすことはない。しばしば、私たちは自分の行いに対する即座の因果関係を免れる。

過去90日以内に一冊も本を読まなかったとしたら(ファミリーの場合は、この例にある「本」という言葉を「レター」に置き換えた方が適切でしょう)、この自己訓練の欠如は人生に即座の影響をもたらしていないように思えるだろう。そして、今までの90日間に何も劇的な事が起こらなかったので、これからの90日間もこの誤った判断を繰り返し、それがずっと続いていくのだ。どうしてだろうか? たいした事に思えないからだ。そしてここに大きな危険が潜んでいる。本を読まないよりもはるかに悪いのは、それがたいした事であるのに気づきすらしないことだ!

身体に良くない食べ物を食べ過ぎる人は、将来の健康上の問題を招いているのだが、ひとときだけの喜びが将来もたらされる結果を見えなくする。たいした事には思えないのだ。たばこを吸いすぎる人や、酒を飲み過ぎる人は、来る年も来る年も、お粗末な選択をし続ける。・・・たいした事に思えないからだ。だが、これらの判断の誤りに対する苦痛や後悔は、将来に引き延ばされているだけだ。当然の結果が即座に訪れることは滅多にない。代わりに、それは積み重なって、ついに避けられない報いの日が来るのであり、私たちは自分が下したお粗末な選択のツケを払わなくてはならないのだ。そう、たいした事に思えなかった選択のツケを。

失敗の最も危険な特質とは、その潜伏性である。短期間では、そうした小さな誤りは何の違いも生じさせないように見える。失敗しているようには見えない。・・・ひどく恐ろしいことは何も起こっていないし、私たちの関心を引きつけるような即座の結果は何もないので、私たちはただ一日を何となく過ごし、次の日も誤りを繰り返し、間違った考え方をし、間違った声に耳を傾け、間違った選択をし続ける。昨日、空が落ちて来るようには見えなかった。だからその行為はたぶん無害だったのだ。目立った結果は何もなかったから、繰り返しても安全だろう。

だが、私たちはそれよりももっとよく知るべきだ!・・・

失敗の公式と同様、成功の公式も従いやすいものだ。将来というものを、現在の人生観の大切な一部に取り入れるのだ。

成功も失敗も両方とも、将来の結果が関係している。すなわち、過去の行為からの必然的な報酬か、あるいは不可避的な後悔だ。それが本当なら、どうして人はもっと将来についてじっくり考える時間を取らないのか? 答えは簡単だ。現在のことで頭がいっぱいで、そんなのは大した事がないと思っているのだ。ある人間にとっては、今日の問題や報いに夢中になり、明日のことを考えるために立ち止まる時間など全くない。

だが、毎日ほんの数分でも将来のことを考えるように、新たに自己を訓練したらどうだろうか? そうすれば、現在の行為に対して迫りつつある当然の結果を予見できるようになるだろう。その貴重な情報で武装していれば、誤りを新しい成功志向に変えるために自己を訓練するのに必要な措置を執ることができる。つまり、前もって将来を見越すよう自分をしつけることによって、考え方を変え、誤りを修正し、古い習慣に取って代わる新しい習慣を身につけることができるのだ。

新たに自己を訓練することのまさに不思議な点とは、それによって考え方を修正するようになるという所だ。今日、もっと一生懸命がんばり始め、致死性のとらえにくい誤りを、建設的で報いある方向に自己を訓練できるよう、すべての面で意識的で徹底的な努力をするなら、私たちはただ何となく生きているだけの人生に再び落ち着くことは決してないだろう。実体ある人生の実の味を知ったからにはそんなことは絶対にない!(以上、ニュース記事)

(ママ:)この著者は、あなたたちは今日、将来を築いているという観点から、言い開きの責任のコンセプトに光明を投じています。正しい選択をするなら、つまりファミリーにおいては主と御言葉に従えばということですが、そうするなら祝福されます。経済的な観点から見ると、経済基盤が向上し、主は供給の奇跡を行えるようになるという意味です。けれども、もしあなたが惑わされて、間違った選択や悪い決断や不従順を犯してもたいしたことはないと考えるなら、最終的に失敗してしまうでしょう。そして、あなたが失敗した理由とは、主はそれを見逃したりせず、「たいした事ない」では済まさないからであり、あなたはもっとわきまえているはずだからです。それが言い開きの責任の最重要点です。(ML #3462‚ GN 1047:149-153)

ホーム・メンバーは、互いに正直になり、進んで互いにシェパディングし合い、覆い隠しあうのではなく、むしろ愛によって進んで真理を語ることによって、兄弟を見守る者となるべき。

(「立ち上がり、乗り越えよ」ML #3497—パート1から3までを参照)

「選択とそれに伴う当然の結果、パート2」 より

(ママ:)中には、「兄弟を見守る者となる」という言葉を少し悪い意味に取る人たちもいます。とっさに、独善的態度、コレクション、友情が台無しになる、誰かに不当な報告をされるなどのことを考えるのです。

私は、主がどういう意味で私たち一人一人を兄弟を見守る者と呼んでおられるのかを尋ねました。これは、多くの人にとって目を開かせるものとなるでしょう。またそれと同時に、主からのこのチャレンジを聞いた時に感じる、主は自分が一人も友達がいない独善的な怪物か何かになるよう期待しておられるのだろうかというプレッシャーや恐れからも解放されるでしょう。このリストを読むと、主はあなたに最善の友、つまり正しい種類の友となるよう求めておられるのがわかるでしょう。そうです。それには、謙遜さ、確信、霊の強さが必要であり、あなたたちの多くはそれを得るために戦うことに慣れていません。けれども、それは可能です。しかも、そうすれば、あなたや、あなたの友達、愛する人たちは今までにないほど幸せになれるのです。共に基準を上げるなら、誰も損失を被らずにすみます!

(イエス:)兄弟を見守る者になるというのは、自分よりも他の人を愛するということ。

兄弟を見守る者になるなら、あなたはその人にいかなる肉体的、感情的、霊的な害も及ばないようにするために必要なことは何でもする。

兄弟を見守る者になるというのは、支えてあげること。

兄弟を見守る者になるというのは、その人のいない所でいつもその人について何か良いことを言えるということ。

兄弟を見守る者になるというのは、その人について決してゴシップせず、また、偽りや、あなたが知る必要もなく、誰かに話す筋もない物事を広めることによって、いかなる面でもその人と多の人たちとのフェローシップを妨げないこと。

兄弟を見守る者になるというのは、互いの注意をわが言葉に向け合うこと。

兄弟を見守る者になるというのは、正しい種類の友となること。

兄弟を見守る者になるというのは、いつでも互いに助け合おうとすること。

兄弟を見守る者になるというのは、たとえ友達関係が終わることを意味したとしても、いつか個人的な友情よりも互いの霊的な幸せを上に置くべき時が来るということ。

兄弟を見守る者になるなら、互いの喜びを分かち合えるようになり、互いに比べ合うことがなくなる。

兄弟を見守る者になるというのは、互いを傷つけないということ。

兄弟を見守る者になるというのは、妥協や誘惑に対して固く立てるよう助け合うこと。

兄弟を見守る者になるというのは、責任。それは、あなたが友達に与える影響や、友が下す選択に対して与える影響に対して、わたしはあなたに言い開きの責任を問うということだ。そして、その選択によってあなたの友がどのような人間になるか、何を達成するか、どれだけ良くわたしに仕えるかが決まる。もちろん、各人の選択は最終的にわたしと本人との間のことだ。だが、良きにしろ悪しきにしろ、あなたはその選択にどれだけ影響を与えただろうか? わたしはそれに対して、あなたに言い開きの責任を問う。

兄弟を見守る者になるというのは、相手に対して自分の人生を開くこと。それによってその人はあなたを助け、正し、セーフガードとなることができ、同様に他の人たちのことも助けることができる。

兄弟を見守る者になるというのは、友情、兄弟愛、団結の究極のきずな。

兄弟を見守る者になるというのは、互いの最善を望むこと。

兄弟を見守る者になることで、ファミリーの全レベルが強化される。

兄弟を見守る者になるには謙遜さが必要だが、その報いはそれに値する。

兄弟を見守る者になるには、わたしとの強いきずなが必要。事実、わたしがあなたの人生で一番大切なものとならなければいけない。世界一の兄にしっかりつながっていないなら、あなたの友や愛する人たちが必要とする兄弟あるいは姉妹になることはできない。

兄弟を見守る者になるというのは、たとえ傷つくとわかっていても、愛によって真理を語ること。

兄弟を見守る者になるのはあなたの義務。

兄弟を見守る者になるというのは、決して、祈り深くない態度で互いに対して批判的になったり、恨みを抱いたり、レッテルを貼ったりすることではない。

兄弟を見守る者になるというのは、この世には、わたしへの奉仕や精神的な健全さや、感情的な幸福に対する危険や、さらには身体や命に対する危険さえあるのをよく知っていること。そしてそれゆえに、それらの危険から互いを守り合うために最善を尽くすということ。現実を直視しようとせずに、何も間違いなど起きない、自分の行動に対する当然の報いなどないようなふりをするなら、兄弟を見守る者にはなれない。

兄弟を見守る者になるというのは、自分には信仰があっても、相手のためにそれをあきらめるべき時もあるということ。「もし肉がわたしの兄弟をつまずかせるなら、わたしは肉を食べることはしない。」

兄弟を見守る者になるというのは、互いの荷を負い合うこと。

兄弟を見守る者になるというのは、痛い所まで与えるということ。それが誰かの助けになるのなら、自分にとって最も大切なもの、つまり時間、愛する人、自分自身を喜んで分け合うこと。

兄弟を見守る者になるには、自分ができる限り良い弟子になろうという願いがあるだけでなく、できる限り多くの人がそのゴールに達するのを助けたいという情熱がなくてはならない。

兄弟を見守る者になるというのは、相手の短期的な幸福よりも、長い目で見た幸福を気にかけること。

兄弟を見守る者になるというのは、祈り深い助言をすること。

兄弟を見守る者になるというのは、いつ口を閉じて祈るべきかを知ることでもある。

兄弟を見守る者になるというのは、決してその人を見放さないということ。

兄弟を見守る者になるというのは、その人がわが言葉に生きると決断するのを励まし、必要とされるチェンジをできるだけ遂げやすくしてあげること。

兄弟を見守る者になるには、同じようなゴールを持つ人たちの近くで暮らさなくてはならない。これにはチームワーク、共通の目標が必要。

兄弟を見守る者になるなら、自分自身見違えるほど素晴らしい弟子になり、それと同様に、他の人たちが見違えるほど素晴らしく将来性に達するのを助けることができる。

兄弟を見守る者になるというのは、御霊に導かれることで、適切な時に、適切な人のために、正しいことを行えるようになること。

兄弟を見守る者になるには、独善的であってはいけない。自分は何かの面で周りの人より優れているという風に自分を高めるなら、うまく行かない。

兄弟を見守る者になるというのは、皆、共に戦っていると知っていること。そして、固く結び合わされていればいるほど、互いどうし気をつけ合うことができ、だんだんそれが簡単になっていき、その過程でより多くを成し遂げることができる。

兄弟を見守る者になるというのは、それが誰かの助けになるなら、どんな犠牲を払うことも考慮すること。

兄弟を見守る者になるというのは、自分がそう扱われたいように他人を扱い、相手の必要、問題、成功についても、自分がその立場だとしたら望むのと同じ礼儀、愛、尊敬心、敏感さをもって接すること。

兄弟を見守る者になるというのは、肉のわざではない。わたしがあなたを通して他の人に触れることができるよう、わが霊を目に見える形にした存在になること。

兄弟を見守る者になるというのは、早合点をしたりあれこれ推測したりせずに、時間をかけて互いを理解し、相手を深く知ること。

兄弟を見守る者になるというのは、相互的なもの。あなたは幾らか与え、幾らか受け取る。

兄弟を見守る者になるというのは、否定的な意見、愛のない行為による傷、敵である悪魔からの攻撃に面しても、互いを支持し合うこと。

兄弟を見守る者になるには、言葉より行動がものを言い、説教よりも見本が優れていることを知る必要がある。

兄弟を見守る者になるというのは、あなたがた全員に対するわたしの望み。(ML #3485, GN 1070:26, 29-74)

「実り豊かなチームを作る」より

(ダッド:)あなたたちは皆、兄弟を見守る者だ。だから兄弟があなたを守ってくれる時があれば、逆にあなたが彼を守ることもあることをよく認識しておく必要がある。私たちは皆、同じ立場にあり、共に働き、共に荷を引いている。私たちは互いが必要なのだから。

あなたが新しいチームを探しているなら、あるいはホームで新しい人員を探しているなら、これらのことを覚えておく必要がある。実用的な技能や才能ばかりでなく、その愛で判断しなさい。助けを必要とする家族、シングル・ペアレントの家族、年配のファミリー・メンバーを招き入れるよう、愛によって導かれなさい。共に基準を上げるよう、互いに愛の内に委ねなさい。愛は勝利チームとなるのに特に欠かせない要素だ。愛しているよ! (ML #3496/OOGN13:40, 41)

「アクション・シリーズ!-パート3」より

(イエス:)互いにコレクション、指導、カウンセルを受けることを学びなさい。わたしがあなたの元に連れて来る群れの教師かつ羊飼いとなるつもりなら、自分自身、シェパディングを受けるだけ謙遜であるべきではないか。他の人から口出しされていると見るのではなく、あなたを愛している人が助けようとしていると見なさい。

(ピーター:)私達は、兄弟を守る者になるべきであるだけでなく、兄弟も私達を守るものであるべきです。あなただけが他の人たちに助けを与えるのではなく、他の人たちもあなたを助けるようになるのです。だから、それを受け入れるのを学ぶ必要があります。

憲章以来、多くのファミリー・メンバーは自分のした間違いが指摘された時に、コレクションを恵みをもって受け入れる習慣がなくなってしまいました。チームワークからコレクションを受けて、それが気に入らないなら、30日の通知を出して移動するので、コレクションに耳を傾けて変わる必要もないのです。多くの人たちはとても独立的になり、そのため、他の人たちからのシェパディングにオープンではありません。普通はプライドが原因の、こうした抵抗のゆえに、彼らの霊的成長はいくらか妨げられてきました。

主は、私達がコレクションを与えるのなら、それを受け入れることもできるよう願っておられることを明らかにしておられます。これから群れのシェパードになるのなら、自分もシェパディングを受けられるほどに謙遜でなければなりません。他の人が自分の人生に口出しをしているといった考え方をやめて、自分のことを愛しているから助けようとしてくれていることに気づかなければなりません。 (ML #3308, GN 908:33, 125-127)

「戦い続けよ!-確信対妥協、パート6」より

(ママ:)ホームで意見の相違や衝突があるなら、ホーム内でそれを解決する必要があります。ホームの人々が献身しておらず、シェパディングされて変わるのを拒むなら、そういう人たちは、彼ら個人のコミットメントをもっと良く反映しているファミリー内レベルに移るべきです。あなたのホームが団結し、妥協がないことを望んでいるなら、妥協している人たちと単に共存してはいけません。そうするなら、彼らの罪ゆえにあなたが害を被る可能性が大であり、それはあなたが従わなかったからです。 (ML #3366, GN 969:65)

「選択とそれに伴う当然の結果、パート2」より

(ママ:)もう一つ、特にあなたたち若者がこれらの状況から引き出して心に留めるべき非常に大切なレッスンがあります。それは、兄弟を見守る者となることです。主への忠誠、同年代の仲間に対して立ち上がり、彼らを助けるための確信を持っていれば、これらの出来事は完全に防げたかもしれません。あえて言いますが、これらの状況における妥協と不従順は、あなたたちが自分の友達についてや、友達の問題、弱さ、妥協、必要について知っている多くのことに比べたら、氷山の一角に過ぎません。そしてあなたは、その多くについて彼らの助けになることができたか、彼らのために助けを求めることができたか、あるいは助けを求めるよう勧めることができたはずなのです。でも、あなたはそうしませんでした。

ファミリーの若者であるあなたたちに、主に対して忠誠を尽くし、堂々と自分の意見を言うことをいとわず、互いに互いをシェパディングし合うことによって互いへの純粋な愛を示すという習慣がついていたなら、これらの状況はとても異なった結果になっていたでしょう。そして、自分でその人を助けることができないなら、その人に代わって助けを求めなさい! あなたたちが友達や友情を大切にしているのは知っていますし、事実そうすべきです! けれども、友や愛する人たちをそれだけ大切に思っているなら、彼らの最善を望むべきです。そしてそれには、霊的に彼らを助けること、彼らの間違いを正すのをいとわないこと、必要な時にはシェパードに心を分け合うよう勧めること、そしてそれが全部うまく行かなかったなら、彼らのことを報告して、どうしても助けを受けざるを得なくすることが含まれます!

(イエス:)これらの状況はある人たちにとって、悲しく、ショッキングで、衝撃的だった。わたしは確かに、それらの人たちが、妥協と不従順の危険性に気づいたように望む。これはすべての人のためのレッスンだ。誰もが絶対にこのレッスンを学ぶ必要がある。だが、わたしへの恐れをほとんど抱いていない若者が大勢いて、彼らは必ずしも霊の戦争が現実のものであることや、敵がいかにして不従順や妥協を通して侵入しようとしているかを信じたり理解したりしていない。

あなたがたがの多くが、わが保護、わが愛、わが祝福にそれほども慣れてしまい、もう不従順を犯すことさえも恐れていない。あなたがたは、不従順を犯し、それから互いの罪をかばい合うことを恐れない。そして、それを続けていく内に、わが確信の声はあなたの心の中で弱まり、あなたはもはや、自分が何か間違ったことをしていることにすら気づかない。報告しているべきであることや、基準を保つために互いに助け合っているべきであることにさえ、気づかない。

兄弟を見守る者になることがどれほど大切かわからないのか? あなたは、かばうことによって彼らを守っていると思っているが、これを見なさい! わたしはこれをレッスンとして使って、このような妥協がどのような結果になるかをあなたがた全員に理解させようとしている。逆に言えば、確信を持ち、信念のために立ち上がることで、誰かの命を救っているかもしれないということをだ! 時々彼らはそのように見ないかもしれず、報告したことで腹を立てるかもしれないが、長い目で見れば、彼らもあなたに感謝するだろう。彼らがわが奉仕を続け、全身全霊を捧げた弟子であるならば。また、たとえ彼らが感謝しなくとも、彼らの悪事があばかれ、人々が決断に導かれて、彼らの不従順によってファミリーが弱まらないようにするのは大切だ。

あなたがたは完ぺきである必要はないが、従順になるのは必要だ。正直になり、わが前に清い心を持つことが必要だ。そうでないなら、気をつけた方がいい。敵である悪魔は、妨害し、害を与え、滅ぼすためにはどんなものでも使うだろうから。(ML #3485, GN 1070:11, 12, 14, 17–19)

「フルタイムの弟子とは?」より

(ピーター:)主はあなたたち全員にコミットメントをするように召しておられます。あなたがすべきコミットメントとは、シェパードとなること、近く従うこと、御言葉を信じ尊ぶこと、それを自分の生活に当てはめて、近い将来、他の人が御言葉を人生に当てはめるのを助けてあげられるようになることです。

主はあなたに、「兄弟を見守る者」となり、「互いに愛をもってシェパディングし合い」、「祈りで互いを支え合う」ように求めておられます。あなたに肩書きがあろうがなかろうが、これらがシェパードとしての仕事です。イエスはあなたに、今それを始めて、主があなたの戸口に人々を連れて来始める時には準備ができているようにしなさいと求めています。

兄弟を見守る者となろうと働きかけなさい。たとえばあなたがつき合っている人など、誰かが下に流されているのを見たなら、その人を助けてあげるようにしなさい。独善的になってはいけないけれど、完全に意気地なしになってもいけません。誰かが間違った選択をしているか、疑いを語るか、御言葉に従っていないなら、その人に話しなさい。彼らのために祈りなさい。それについて、あなたのシェパードに話しなさい。主に尋ねて、助けるために何か自分にできることがあるかどうか、見てみなさい。彼らはあなたの兄弟姉妹なのだから、助けられるなら、助けてあげなさい。それはあなたの責任です。彼らを押し流されるままにしてはいけません。

あなたのホームで、今その人がしている選択ゆえに、結局はファミリーを去るだろうと感じるような人はいますか? そうならば、その人を積極的に助けなさい。みすみす悪魔にその人を奪い取られてはいけません。彼らのために戦いなさい! 関わり合いなさい。その人のことを、チームワークの目に留めさせなさい。彼らをふらふらと去るままにさせてはいけません。主が言われたことをしなさい。「兄弟を見守る者となりなさい。愛の内に互いをシェパディングし合うことを学びなさい。霊の内で助け合いなさい。祈りによって、互いに支え合いなさい。」

あるいは、あなたの弟や妹はどうですか? 最後に彼らにクラスを教えたか、御言葉を一緒に読んだのはいつですか? 最後にトークタイムをし、彼らの質問に対して御言葉で答えたのはいつですか? 最後に彼らの霊的生活に関わったのはいつですか? 弟や妹に対して良い影響となっているかどうか、自分に問いかけて下さい。あなたは彼らに、自分の足跡に従ってほしいですか? あなたの足跡に従うなら、彼らは結局どこに行き着くのでしょう? 今日、弟や妹に対して良い見本となることで、あなたは彼らをシェパディングし始めることができます。 (ML #3469, GN 1055:95, 96, 100-102)

ホーム・カウンシルやその他の正式なホーム・ミーティングで、ホームの決断や方針について話し合い、案を練り、投票する。真のインプット、オープンな話し合い、ホームの投票メンバーによる過半数の同意なしに、事実上の「頭」によって決断が下される「家族経営の店」のやり方で物事を運営しない。

憲章-「各メンバーの基本的権利」より

B.祈り、話し合い、討論、投票によって、ホームの基本的な性質やゴール、方針、及び活動内容を決定する権利。ただし、それらは、自分の住むコンチネンタル・エリアのゴールやファミリー全体のゴールに沿ったものでなくてはならない。

メンバーは、自分のホームの方向やゴールや、基本的性質、さらにはそのゴールを達成するためにホームが行う活動を決めるのを助ける権利を持っています。取るべき行動について投票する前に、議題について祈り、他の人達と話し合い、ホーム・カウンシルで討論する権利があります。

「ファミリーの基本的ルール」にある「投票に関するルール」(p140)によると、特に指示がない限り、どんな案であれ、投票を行なった場合には、多数決によって決定されます。ホームの投票メンバーの50%を上回る賛成を得たなら、可決されるのです。案が同数票を集めた場合には、案は可決しません。投票メンバーの3分の2が賛成しないと可決しない事柄もあります。たとえば、経済に関する事柄すべて、特定の人員変更、罰に関する事柄などです。

・どんな事であれ、必要に応じて他のリーダーまたはメンバー全員、あるいはその両方の同意を得ることもなしに、一人の人間がすべての決断を押しつけるべきではない。…当然すべき相談や同意なしに一個人が下した決断はすべて、無効とみなされることもありうる。つまり、その決断によって影響を受ける人達が相談も受けなかったからだ。私達自身の小さな家族の中でも、常にそういうやり方をしてきた。霊的なリーダーである私が主の御心と思われることを主から聞き、それから家族と共に祈り、相談して、彼らの同意や裏付けを得るのだ。それはうまくいく! (ML#210:40)

憲章-「ホーム内における各メンバーの権利」より

D.適切なホームカウンシル・ミーティングで、どんな議題でも持ち出し、それを投票に持ち込む権利。議題は、15日以内に話し合われ、投票されなければならない。

ホームカウンシル・ミーティングのための議題は、前もって提案され、ミーティングでは、前もって決めた議題について話せるようにするのが最も適切なやり方でしょうが、ホームカウンセルにおいては、どんな議題でもそのミーティングの目的にしたがって自由に持ち出すことができます。けれども、ミーティングでは普通、前もって決めた議題について話し合われるので、すぐその場でミーティングを中断し、新しく持ち出された事柄について話し合い、投票するのは適切とは言えないかもしれません。ホームカウンシル・ミーティングを導いている人がその決断を下すことになります。どんな場合でも、持ち出された議題は15日以内に話し合われ、投票されなくてはなりません。

ホームカウンシル・ミーティングで同意に達したら、投票メンバーによる決定事項は実行に移されるべきです。たとえホーム・チームワークがホームはある事をすべきだと考えても、投票メンバーが他の事を選択した場合は、投票メンバーの決定が実行されるべきなのです。

・私達は皆...互いに耳を傾け、共にカウンセルし、同意し、決断し、そして共に実行に移すのだ。組織として効果をあげるには、各メンバーが他のメンバー全員と共に働かなければならない。たった一人、あるいは数人だけ、さらには大部分のメンバーだけでさえなく、全員が一体となって共に働かなければならない。キリストはそれをご自分の体、教会と呼ばれ、主ご自身を頭とされた。 (ML #263:76)

「前進あるのみ!」より

(ピーターがサミット参加者に向けて:)成功しているホームというのは、一致したゴールを持ったホームです。ホームのメンバーたちは、ホームを成功させるために懸命に働き、犠牲を払います。共に前進し、ホームを成功させなければという責任感を抱いています。そしてそれゆえに、同胞愛が築かれ、それがホームを成功へと導くのです。メンバーたちは全体的に、ホーム・メンバーが霊的に進歩を遂げるのを助ける人々によって、かなり良くシェパディングされています。

成功しているホームには、普通、ホームに全力を傾けている、重要な中心的人々がいて、彼らはホームに留まり、かなりの期間、同じチームで働き続けます。問題がある時、ホーム・メンバーたちは、30日の事前通知を出すのではなく、問題を解決します。一般的に言って、長い期間共にいて、共に働き、共に霊的に成長するホームが一番成功しているというのがわかるでしょう。

一方、ホームをうまく行かせることに献身した中心的人物からなるチームは、普通、成功しているものですが、必ずしもそうとは限りません。しばしば、ホームに全力を傾けている中心的人物は、そのホームを開いた人たちであり、それは普通、特定の一夫婦か一家族です。家を見つけ、家主に会い、契約書に署名するなどをした人たちです。法的書類に書かれているのは彼らの名前であり、彼らがホームのほとんどの面の責任を負っています。

しばしば、そういう人たちは、そこが「自分の」ホームであると感じ、そのように振る舞い始めます。ホームはそれらの個人の「所有物」となり、その人たちはしばしばチームワークの永久的メンバーになって、事実上、ホームのボスになります。そこで、ホーム・メンバーの中で、その個人がチームワークにいなければならないという「暗黙の了解」ができ上がります。これは特に、ホームの「所有者」が、ホームの実際の敷地を買ったか、相続したかによって、実際の住宅所有者である場合に起こります。

ホームを開いた夫婦や人々が、良き羊飼い、賢いリーダーで、カウンセルにもオープンであり、ニューワインを必死に適用しようとし、チームワークでいるのに必要とされる賜物を持っている場合には、このような状況は有害ではないかもしれません。けれどもいつもそうとは限らず、残念なことに、このような状況は、初めにホームを設立した人たちによってホームが運営され始めるといった状況につながることがよくありました。そして彼らは、憲章や御言葉に書かれたファミリー・ルールというよりも、彼ら個人のホーム・ルールによって、彼らの望む方法で物事をお膳立てするのです。ホームの人々は、「住宅所有者」の願いに従って行動しなければならず、さもないと、もうホームにいることができません。時にはこれがさらに発展して、「住宅所有者」が、そのホームに加わりたがっている人たちに対し、自分たちの要求をリストにして、もしそれらの要求に同意しないなら、ホームに加われないと言うことさえあります。

しばしば、このような、言葉となった、あるいは暗黙の内の要求は、憲章の逆を行きます。たとえば、「忙しすぎて世話できないので、うちの小さな子供たちはテレビをよく見ます。うちのホームに来るなら、そういう状況だと理解して下さい」、あるいは、「私たちには、私たちなりの子供のしつけ方があります(たいていの場合、子供をしつけないという意味)。だから、あなたやあなたの子供がこのホームに加わりたいか、留まりたいなら、私たちはこのしつけ方を続けるつもりだというのを了解しないといけません。もし同意しないなら、うちのホームに加わることはできません」と。もちろん、このような発言は憲章に反していますが、事実、そういうホームがたくさんあります。彼らは「家族経営の店」となり、しばしばCMの基準のずっと下まで下がり、実際の所、CMの肩書きを持ったFMホームと言えます。

たとえこのようなホームが御言葉や憲章に反したルールや方針を定めていなくても、そこが小さな王国のように運営され、そこを取り仕切っている人たちが自分のやり方で、しかも自分のやり方だけでやっているという事実だけでも、憲章に反しています。「家族経営の店」が、他のホーム・メンバーに対し、自分たちの選択や自己決定の権利を与えず、またホームの性質、ゴール、方向性、活動を、祈りや話し合い、討議、投票によって決めることを許していないなら、それはCMの基準に生きている正真正銘のチャーター・ホームではありません。(ML #3479, GN 1067:41-47)

「イエスはあなたにとってどれだけの価値があるのか?」により、ホームの各自に毎日質の高いワードタイムが1時間半取れるだけの機会が十分に与えられている。

「イエスはあなたにとってどれだけの価値があるのか?」より

(イエス:)秘訣は、優先すべき事を優先する事である。わが言葉があなたの人生において飛び抜けて大切なものとなり、あなたの人生において第一の存在であり、わたしやわが霊の事があなたにとって一番価値があるものなら、わたしはフェローシップや気晴らしの時間を許し、奨励さえするだろう。今、この新しい革命においても、それは変わらない。だが、わたしはあなたが、永続した実を結ばないこの世のものではなく、霊のフェローシップや気晴らしを求める事を願う。団結をもたらし、あなたの霊を養い、あなたをわたしや互いどうしに近づけるものを。

多くの場合、このチャレンジに応えるためには、何かを手放さなくてはならない。何かが犠牲にならなくてはならないのだ。どんな方法や形、形式であっても、世俗的な快楽と体制のインプットは、一番はじめに捨てるか、あるいは制限するべきものだ。あなたがたは皆、どちらにしてもいつかはこの体制の「つまらないもの」を捨てなくてはならないのだから、今、それを削減したり取り除いたりしてはどうか?

あなたが世俗の楽しみに時間を費やしていないなら、そして、その部類に入る人はほとんどいないのだが、そういう人は人生の他の面をよく探って、どこで犠牲を払えるかを調べ始めなければならない。もしかしたら、リラックスしたり、フェローシップしたりする時間を少し減らせるかもしれない。わたしが言っているのはその全部を取り除く事ではなく、優先順序を正し、優先されるべきものを優先する事である。あるいは、わたしの時間をもっと取れるように、働く時間を減らす必要があるのかもしれない。

愛する人よ、このすべての事における秘訣は、正しいバランスである。あなたはこの毎日の最低限のワードタイムを取らなくてはならない。そして、それが足りないなら、生活の他の面においてどこかバランスが取れていない面をじっくりと見てみなくてはならない。何らかの世俗的な気晴らしに多くの時間を費やしているなら、その時間を減らすか、そのような気晴らしを取り除くべきだ。フェローシップにあまりにも多くの時間を費やしていたり、ここそこでのおしゃべりや、ちょっとした話し合い、会話で時間が使い果たされているのに気づいたなら、その余分の部分を取り除くべきである。他のあまり大切ではない事に費やされていた時間を、一日を通してここそこで節約する事で時間を有効に使う事ができるなら、余分な時間がまるで魔法のように現われて来るだろう。そして、最後に言っておくが、あなたの人生のバランスが大きくくずれ、主の仕事が、その仕事の主や、あなたに必要な強さと力と、仕事を達成する導きを与えるわが言葉よりも優先されるに至るなら、その時あなたは、その面でもより良いバランスを見つける必要がある。

あなたがこのすべてのポイントを理解するのは、非常に大切だ。つまり、わたしが優先されるという事だ。わが言葉が最初に来るのだ。

(イエス:)1時間半は、質の高い時間であるべきだ。・・・

何が「質の高い」かを決めるのは、個人の責任である。そして、心から従い、この時期に必要としているインプットと訓練を受け取るためにできる限りをしたいと求めている者は、正しい判断をし、いつもごまかしたり、わが言葉に関連した質の低いアクティビティーをわが言葉の要求事項の一つとして数えたりしようとはしないだろう。その鍵とは、質が高く、深い、養われるワードタイムにある。時間をかければよいものではない。要は、養われ、訓練され、霊感される事だ!

質の高いワードタイムというゴールは、いくら強調してもし切れないぐらいだ。つまり、本当に集中し、養われる事であって、ホーム全体のデボーションでぼんやりしたり、他のアクティビティーをしている時にMP3ファイルやワードテープを気軽に聴いたり、何かの主題に関するファミリー出版物にざっと目を通し、それを「ワードタイム」にして満足する事ではない。わたしは、あなたと愛のベッドで時間を過ごし、深いコミュニケーションをし、親密に互いの情報を交換し合い、質の高い会話を交わし、心と心のやりとりを持つ時間がほしい。そして、ここでもまた、あなたの個人的なコミットメントと願いがその秘訣となる。各々が、わたしとの真のつながりや本当に養われる事、「質の高いワードタイム」と言えるもの以下では満足しないという決断を下さなくてはならなくなるからだ。

(ママ:)主は、あなたが主を愛しているから、弟子になりたいからという理由で、それを主のためにするよう、あなたに求めておられます。・・・これは任意です。ただし、あなたがどれだけ祝福されるかは、このカウンセルにどれだけ従うかによる事に、どうか気づいて下さい。これをただ吹き払ったり、何事も起こらないだろうとか、今まで通り何も変わらないだろうと考える事はできません。そうではありません。個人的にであれ、ホームとしてであれ、御言葉をおろそかにし続けるなら、当然の結果が起こるでしょう。あなたは損失を被るのです。主がそれを行われるでしょう。 (ML #3433, GN 1016:185-189, 233, 234, 240, 57)

取りなしの祈り・・・を取る

「イエスはあなたにとってどれだけの価値があるのか?」より

(イエス:)わたしは、毎日とりなしの祈りの時間を30分取るという新しい憲章の修正事項を設けたい。これは、一人一人の祈りのビジルの時間となるべきだ。これは、あなたが他の人のために働き、霊の内で注ぎ出している時間である。これは、自分の霊を養うための時間ではない。とりなしの祈りは霊を高め、インスパイヤリングであり、そのような祈りの時間が終わった時には、多くを達成したように感じ、平安を心に抱くものの、これは自分自身の霊を養ったり、わが言葉やわが道における訓練を受けたりするための時間ではない。だから、この時間はわが言葉の要求事項とは別にされるべきだ。

これは、現在の憲章要求事項の修正となる。現時点においては、この1時間半にはとりなしの祈りも含まれている。だが、この祈りの時間は、他のアクティビティーの上にさらに「組み込む」事ができる。あなたは、夜に目が覚めている時や、皿を洗っている時、洗濯物を干している時やゲットアウトで散歩に行く時、電車やバスに載っている時に、祈る事ができる。あなたがすでにしている事や、必要な日常の行為をしながら、とりなしの祈りを組み込める機会は、無限にある。マルチタスキング(訳注:複数の処理を同時に実行する事を意味する、コンピューター用語)によって、あなたは時間を有効に使う事ができる。だから、1時間半のわが言葉の時間に、追加の要求事項として30分のとりなしの祈りを加える事は、それほど難しい事ではない。

祈りのビジルは、どっちみちするであろう事をしながらできる事がよくある。だから、それは、仕事時間にしろ、フリータイムにしろ、他のアクティビティーの時間を奪う事にはならないだろう。その方がずっと効率が良いし、祈りのビジル自体を要求事項にする事は、それにふさわしい優先順序が与えられるだろう。

わが言葉とわたしとの1時間半と、30分の祈りのビジルは、多すぎはしない。これは実行可能だ。確かに、チェンジや犠牲が必要とされるが、到達不可能なゴールではない。特にあなたが、わたしを親密に愛し、わが言葉を読み、賛美し、暗記と復習をし、わたしから預言で聞くなど、わが言葉の時間を構成しているあらゆる事を含めるならば、到達不可能ではない。それどころか、これは、わずかな変更が幾つかあるものの、基本的には、わたしがずっと始めから要求してきた事であって、単に、わが子らがそれを優先せず、それにふさわしい神聖なる不可侵性を与えていなかっただけの事だ。

祈りのビジルは、この1時間半のワードタイムの追加となるべきだ。祈りのビジルは、他の事をしている間でもする事ができる。子供や羊と一緒にする事もできる。バスを待っていたり、トイレに座っていたりしながらもできる。運動しながらでもできる。他の事をしながら祈れると言ったからといって、心から祈らなくてもよいというわけではない。また、わたしの前にひざまずいて祈り、心を注ぎ出してとりなし、自分自身をすべて捧げて祈る時もあるべきだ。そのような時間はあなたの霊にとって良い。そして、霊の世界で大きな影響力があるだろう。 (ML #3433, GN 1016:236-239‚ 258)